私がしっかりせねば。
2010年3月アーカイブ
私は奴を、和田一憩を、完全に吸収してしまえたらなあ、吸収してやれたらなあと思う。私の方が奴よりも断然、強いからだ。
奴は口癖のように「生きにくい」と言い、私は私で口癖のように「いつまでもアンタの影は嫌だ」と言い、このサイコロステーキよりも小さく狭い世界の中で喧嘩が絶えなかった。
私はいつだったか奴がこのブログに「山の天気は変わりやすい。が、一つ屋根の下の天気はもっと変わりやすい」という文章を寄せたことを知っている。私はものすごく側にいながら、寄せることに反対しなかった。私には無縁のこと、奴にとって外的なことを書いていると思ったからだ。
「ひょっとして私とのことを言ってる?」気付いたのは、彼が彼ではなくなってしまってからのことだった。
私には読者の皆さん、特に男性読者の皆さんの私に対する興味が今、私のどこに向けて注がれているのかということが手に取るようにわかります。
ルックスでしょ?どうせ。
一憩の影、一憩のB面。和田一憩という極めてややこしく情けない人物と33年の長きに渡って苦楽を共にしてきた彼の中の女性性たる私が一体どんな顔をしているのか。それがめちゃくちゃ気になるんでしょ?そりゃそうですよね。顔の見えない人間の文章よりも、少しでも顔の見える人間の文章の方が読んでて感情移入できますもんね。
私はね。ズバリ、芸能人で言うと中川翔子に似てます。はっきり言って瓜二つで、万が一、あなたが「似てねえ!」と誤った判断、吠えたとしても、だからと言って私は私という人間のルックスは決して不細工ではないと思います。一憩には常日頃から「俺はもっと小雪とか鈴木京香みたいなんが良かった!」みたいなことを言われてますが、私は我ながら決して不細工ではない!と、断言できる、そんな顔です。背が低くてね。
ただ..性格が..性質が..小野洋子なんです。
いや、小野洋子っていってもね、あの、その、ジョン・レノンの奥さんじゃなくて..山形のぼくとつとした..値切りの上手い..。
昨日、このブログの一周年を目前にしてリタイヤした実に情けない男、和田一憩から急遽代打を頼まれました。最初は迷ったし断ろうとも思ったけれど、私と彼は一心同体、表裏一体、光と影の関係。彼の責任は私の責任でもあるので、やむを得ず一肌脱ぐことにしました。ノーギャラで。和田一憩...もう33年の付き合いになりますが本当にふざけた野郎です。
あ、自己紹介を忘れてました。『イッケイノウタ』の読者の皆さん、初めまして。私はいわば一憩の「影」で、一憩の中の女性的な部分を司ってきた者で、名前を阿仁真里(アニ・マリ)と申します。一憩が復帰するまでの間、私がこのブログを継続させていくことになりましたので、よろしくお願いします。
ところで、実は、皆さんが私の作品に触れるのはこれが初めてではありません。ここだけの話、一憩が「俺が書いた」と言い張っているものの中には私が拵えたものが少なからず、あります。例えば「M&M」という曲。あれは、あの曲のメロディは私が書いたものです。あと、一憩がバンドをやってた時によく「無題」って曲をやってたでしょ?あれも実は私の作曲です。一憩は私の書いたメロディに詞を乗せただけです。あの曲は一憩が発表した曲の中で唯一の「ワルツ」ですが、そもそも一憩が3拍子の曲なんて書けるはずがないでしょ?ね?あと、一憩がソロに転向してからも好んで演奏する「アニマ」って曲ね。あれもあれはあれに至っては作詞作曲ともに完全に私の手によるものです。だってほら、タイトルがタイトルでしょ?
ごめんなさい。でも、真実は真実。真実はいつも残酷ですよね。
この際だから、名刺代わりにもっと言うと、私が作ったにも関わらず一憩名義で発表されたものは実は音楽だけではありません。実はこのブログに載せた文章の中にも私が書いたものが少なからず、あります。例えば「信用失禁〜砂金と船〜」なんかは完全に私が書いたものだし、超短編小説「堀井ヴァイブル」のシッケーナという女性が出てくるくだりは完全に私のアイデアによるものです。あと、最近のものでは「連綿虫」ね。あれは、振戦がひどくなって携帯をまともに扱えなくなった一憩の言葉を私が代筆したものです。そう、最近の彼は完全に私ありきでした。ま、昔からですが。
と、いうわけで当分の間、このブログは私、阿仁真里が仕切ります。一憩が復帰してきた時にはこのブログのタイトル、『アニマリノウタ』になってるかもね。でも、ま、どうせ、奴は言うんでしょうね、「それはそれでええよ」って。だって奴は私で、私は奴なんだから。
今日から4月いっぱい、ブログを休止します。
愛読者(←本当にいるのかな?いてくれたら本当に嬉しい)の皆さん、1ヶ月だけ休むことを許してください。
ちょっとの間、個人的に色々考えたり、もしくは全く何も考えなかったりする時間をください。
よろしくお願いします!
ライブ、楽しみにしてくれていた方。ライブの為に仕事を休みにしてくれていた方、本当に申し訳ないです。
俺、体調を崩してしまった。
延期にします。本当にごめんなさい。
え?歩きタバコを止める気?微塵もござんせん。
詞が書けない。っていうか詞だけじゃない。正直、曲も書けなくなってしまった。
何も浮かばないわけじゃない。むしろその逆。浮かぶのは浮かぶ。吐いて捨てるほど浮かぶ。そこそこ良い曲なら10分で書ける。でも、自分が今まで培ってきたもの、いわゆる『癖』がどうしても出てしまって、その都度イラッ!ときて、ボツ!ボツ!ボツ!どれもこれも作品として残す気になれない。
俺はここらで一発、自分でも良し悪しのわからない、ブッ飛んだのを創りたい。
キッツイ酒を5リットルくらい呑んで、ブッ倒れて、誰かに「そうはさせん!」とばかりに抱え起こしてもらって、チューニングの狂ったギターを無理矢理押し付けてもらうとかすれば良いのだろうか。そうすれば何か、自分が自分であることを無視したかのような奇怪なものが自分から出てくるのだろうか。
30分でいい。ロックが死ぬほど好きな、でも俺とは聴いてきたもの、吸収してきたものが全然違う、自分以外の誰かになりたい。
俺は、俺という人間は『人間』としてはかなりの不良品だと思っている。従って、俺は俺という人間をあまり好きではない。いや、はっきり言って大嫌いなので、人に対して声を大にして「俺って奴ぁオススメですぜ!」なんてことは口が裂けても言えない。が、自分で自分のことをひとつの存在、例えば一枚のレコード、『作品』として捉えた場合には、俺は俺という人間は決して捨てたもんじゃないんじゃないか?と思えているがゆえに、人に対しても「俺って奴ぁ結構オススメですぜ!」なんてことは声に出しては言わないまでも、言わないだけで実は漠然と、しかしながら確実に、子供の頃から連綿と思っていたりする。
俺は、俺のたった一度きりの人生は、俺として、『和田一憩』として生きるより他、選択肢はない。んなことは考える前にわかっている。そして、繰り返すようだが、自分で自分のことを考えた場合に、思い付く限り全ての角度から自分自身を見つめた場合にも自分自身のことが嫌い、大嫌いかというと、それはそれでまた違うし、だからゆえに生きていけてるんだということもこれまた事実だと思う。
ところで、人にはそれぞれに「フィールド」ってもんがある。少しでも自分で自分のことを好きでありたいのならこの「フィールド」、「自分のフィールド」ってのを今一度深く掘り下げて考えるべきだと思う。
自分という人間をどう捉えて、自分の願望を踏まえた上で自分の人生の流れをどう見て、自分自身をどんなタイミングでどこに連れていくのか。
わかんねえ。さっぱりわかんねえ。考えれば考えるほどにさっぱりてんでわかんねえし、こうやって書けば書くほどに迷宮入りしていくけれど、答えなんて出ようが出まいが考え続けることに意味が、意味的なものがあるということだけはわかる。
考えなくなったら終わりだ!
書き込み、心から感謝します!
寄せてくれた文章の冒頭から、仕事上の愛想笑いが仮面みたいに顔面にへばりついたまま剥がれへんようになったらどないしよ...という不安が見てとれます。でもあんたは大丈夫です。俺はあんたのことを小学一年の時から知ってるけど、今でもあんたの笑顔はあの頃のまま、6才の頃から全く変わっておりません。逆にそれが問題なくらいです。数ヵ月前、久々に会って酒を酌み交わした。あん時もあんたの表情に違和感みたいなもん、これっぽっちも感じんかったよ。だから大丈夫。だいたい、「美脚」という単語の頭に「ザ」を添えることによって、まるで各種美脚がダイソーに並んでおるかのような錯覚に俺を陥れる腕を持っている人間の表情がそんないとも簡単に歪むはずがないのです。
美脚が好きです。美腕はも〜っと好きです。
ぶつぶつぶつぶつ、詞を考え、何か思い浮かぶたび口ずさみながら立ち寄ったとある中古CD屋でミスチルの「NOT FOUND」のシングルを購入した。
俺のこの曲に対する思い入れの程は以前にこのブログにも書いたが、しっかしまあええ曲やな、ホンマにええ曲やな、と思う。心から「やられた」と思う。
ちょっと前、うちの職場で飲み会があって、その後、二次会的にカラオケBOXへと突入したのだが、俺はその場で上司を目の前にこの「NOT FOUND」を熱唱。曲への思い入れが思い入れなだけに感情が入りに入ってしまったが意外や意外、引かれるということは一切なく、普通に「イエー!最高!」などと実に快活な拍手をいただいた。というのも、その場に居合わせた上司、先輩、皆が皆、キリキリと心を込めて歌い上げるタイプの人たちだったからである。
そんな環境下、ここぞとばかりに俺は歌った。こんな環境下じゃないと絶対に歌えないレノンの「イマジン」をキリキリと歌いあげた。上司、先輩を含めて皆さんちゃんと聞いて、一緒に歌ってくれた。
たったこれだけのことで、なんて良い職場なんだろうと思った。
次のライヴ。セットリストがまだ決まっていない。オリジナル40曲の中から厳選に次ぐ厳選。さらに今まで演ったことのない曲をカバーも含めて一曲でも多く!と思っているからゆえになかなか決らない。
そんな中で、大昔に書いた曲。それこそ「ドライフラワー」や「M&M」と同時期、いや、それよりもっと前に書いた曲で、詞は最低だがメロディが最高って曲を思い出した。もしこれに素晴らしい言葉が乗れば一発で俺の代表曲になりそうな勢いの自画自賛、素晴らしいメロディだ。
今日は晴天。そして休日。今から外に出て、この曲に見合う言葉を探しに行こうと思っている。
全身全霊で言葉を探す。持ち帰った言葉を細心の注意と遊び心でもって紡いで、『詞』の域まで高めていく。この作業、何年振りだろう。
20かそこらの自分が書いたメロディに、33の自分が言葉を乗せる。感覚的には「共作」に近い。「創る」ということの言うに言えぬ緊張感と愉しさを今まさに思い出しつつある。
めちゃくちゃウキウキする。
そうだ。そうだった。思い出した。
どんな場面においても、俺が大きく伸びる時というのは、俺の中に強烈な尊敬の念がある時だ。「この人みたいになりたい!」という強い気持ちが大黒柱の如き心の軸、非常に感度の良いアンテナのようになって、俺を大きく成長させてくれる。個性みたいなもんは後からついてくる。嫌でもついてくる。
物事には段階がある。今はただ尊敬の念に身を委ねて、パクれるもんは片っ端からパクって、いずれ花咲く我が個性の為に丈夫な土壌を拵えよう。
頭の中のどこか一ヵ所だけでも、成長への過程を楽しめたら、それはものすごく幸せなことだ。
中学の頃から好きだった。でも当時の俺は「なぜ好きなのか」と問われたとしても返事に困ったと思う。頭より先に身体が理解を示した感じだったからだ。
以降、現在に至るまでの20年間、それに触れたくなる時期が定期的不定期的に必ずやって来ては「お、来たな!」などと喜んで、無用心に迎え入れては無警戒に触れて、触れるたびに頭でも理解できるようになって、歳をとるごとに着実に好きになっていって、気付けば手に負えないくらい大好きになっていた...底の見えない不思議な魅力。
そんな音楽。そんなバンド。
U2。俺を支える六頭目の虎。
坂本竜馬好きとは友達になれない。
先程、目を閉じてあちら側へ行き、以前、書込寺が建っていた場所に『斜呉箱(しゃくればこ)』という箱を設置してきた。用途は以前の書込寺と同じ。このブログの愛読者の皆さんに何でも良いから自由にコメントを寄せていただくためのもので、『斜呉箱(しゃくればこ)』という名称は「受け口」という意味である。
数ヵ月前、とある旧友が酒の席で「あんたのブログはコメントしづらいよ。極めて」と言った。俺が「書込寺もか?」と尋ねると「そや」と彼は答えた。書込寺自体はその数日後、事業仕分けの憂き目、蓮舫女史に「要らん!」と一喝されてやむを得ず炎上させたが、その後も俺の頭の中には「なぜ俺のブログ及び書込寺はコメントを寄せづらいのか?」という疑問が残っていた。
考えに考え抜いた結果、「無理もないか」と思った。そう、一度でも書込寺にコメントを寄せてくれた=参拝してくれた人ならよくご存知だと思うが、要するに書込寺が近寄り難い程に豪箸過ぎたのである。
総工費18億6千5百万の鳳凰造り。生まれてこの方、重要文化遺産に認定された建築物と自らの股間以外はいじったことがないと豪語する職人の中の職人39名に依頼して建立した『書込寺』は愛読者の皆さんの純なコメント意欲をかきたてるにはちと威圧的過ぎたのである。
で、そんなこんなを踏まえての『斜呉箱』である。総制作費380円。ティッシュの空き箱を紫色の画用紙で包み、そこに以前、三ノ宮の高架下で買ったオアシスのステッカーを貼っただけのもので、箱を持ち上げて底を見ると、実に稚拙な字で「一憩の」と書いてある。
シンプルにして純。これなら皆さん馴染みやすいだろう。書き込みやすいだろう。有頂天になって鼻水をたらしながら設置してみたがどうでしょう。あなたは何らかのコメントを寄せてくれるだろうか。楽しみにしています。
コメントを寄せる期限は書込寺の時同様、このブログに『斜呉箱』の表示が出てから一週間とします。従って、初回に当たる今回は3/21(日)まで。
内容は問いません。俺への質問でも、あなたのひとりごとでも、本当に何でも良いのでよろしくお願いします!
このブログを含めた『表現の場』以外では俺はもう何も言わない。喋らない。
子供の頃から現在に至るまで「言わなきゃ良かった..」の連続だ。
墓穴しか掘れないスコップなんて要らない。
俺とは比べものにならないくらい言葉の使い方を知らない人間に限って、俺とは比べものにならないくらい言葉に絶対の信頼を寄せている。
訳のわからない圧力。見渡す限り黒船黒船黒船。
鎖国。
年に4回くらいで良い。それこそ四季の移り変わりのようにごくごく自然な形で楽しい夢のある変化が日常に彩りを添えて、それを楽しんだり、楽しみに待ったりしながら生きていけるというのであれば、人生はなかなかに楽しいものだと思う。
「楽しみに待つ」ということは本当に素敵なことだ。
最近、自分の中で強烈に不安だったり、恐怖だったりするのは、物事が「連綿と続く」ということだ。上昇することも下降することもなく、ひとつの流れが地を這うように重く、匍匐前進の如くに「連綿と続く」ということだ。これが怖くてしようがない。
逃げる気はない..つもり。いろんなことを許される限りの時間をかけて、じっくり自分なりに必死こいて克服していこうとは思っている。思ってはいるが、現実には何一つ克服出来ぬままに、「克服せねば」という葛藤の日々だけが連綿と続くんじゃないか..という恐怖自体がこれから先連綿と続くんじゃないか..という不安で胸がいっぱいで、何か物凄く表現し難い今まで味わったことのない孤独感でいっぱいで、二足歩行、歩いていてもちっとも顎の上がらない今日この頃なのである。
布団の上を虫が這う。
あと何年生きねばならんのだろう。
例えば道行く人に突然「楽しいですか?」と問おたとして、「ハイ!」と快活に答えられる人っているんだろうか。
人間ってドMだ。どいつもこいつもドMだ。重症だ。ただ、「例外は許さない」という姿勢。「ドMにあらずは人にあらず」的にお互いを監視し合って、疑わしきは罰するという姿勢においてのみドSだ。タチが悪いにもほどがあるだろう。
人間は、特にいい歳をした大人は、もっとちゃんと遊ばなアカンと思う。
例えば車のハンドルには遊びの部分というのがあるが、人間の心にもそんな遊びの部分が必要だと思う。人の優しさを語る時に心の余裕ってのは避けて通れない要素だろう。生きることに余裕の感じられない人に優しさを施されてもこちらとしては気を使うだけだ。だから俺は人の優しさって「寄り道」なんかを含めた遊びによってこそ培われるものだと思っている。
もし俺がアンパンマンだったら、巡回に回る際にはジャムおじさんに頼んで子供たちに配る用のパンを顔とは別に持たせてもらう。で、その手持ちのパンが品切れた場合にのみ自分の顔を分け与えると思う。「気ぃ使わせてごめんね」と言いながら。
言葉も金も人間が生み出した物で、人間がいて始めて成立しうる物のはずなのに何故、人間は言葉や金の下部みたいになってしまってるんだろう。
この点に関して、来る日も来る日も納得がいかない。
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