親父は画家だったけど、詩も頻繁に書いていたし、曲を作ったこともあった。で、よくこう言っていた。「絵が描けて曲が書けないなんてことはないし、曲が書けて絵が描けないなんてこともない」その通りだと思う。
目と鼻と口と耳が繋がっているように、芸術というのは皆、一人の人間の中で繋がっているんだと思う。その証拠に、音楽的才能のある人に絵を描かせたり文章を書かせたりすると質の高いものを持ってくるし、文章を書く才能がある人に曲を書かせたり絵を描かせたりしてもきちんと美意識の行き届いたものを持ってくる。そう、全ては美意識の問題。曲を書く時に美意識を持てる人が絵を描く時や文章を書く時に美意識が持てなくなるなんてことはあり得ないし、文章を書く時に美意識を持てる人が曲を書いたり絵を描いたりする時に美意識が持てなくなるなんてこともあり得ない。逆に言えば、美意識を持てないことが何か一つでもあれば、それは全てに於いて美意識を持てないということで、こういった人のことを「才能がない」と言うのではないだろうか。
たまにFacebookを覗くと、相変わらず、ミュージシャン達が書いた内容がなくて文章力もない記事がわちゃわちゃと落ち着きなく祭りのように躍っている。最近は苛立たしく思うのも面倒になって、彼らの頭の悪さを嘲笑って楽しめるようになったが、それにしても酷い。「見られている」という意識がない。恥ずかしくないのだろうか。文章で美意識を感じさせることのできない人間が音楽で美意識を感じさせられる訳がない。「これ(文章を書くこと)は本職ではない」とでも言いたいのだろうが、本職外のことでそこまで駄目なんだから本職はもっと駄目だろう。
もちろん、中には読み応えのある記事を書いている人たちもいる。そういう人たちは例外なく音楽も素晴らしいから、俺は敬意を込めてアーティストと呼んでいる。既に書いたように、音楽的才能があるということは広く芸術的才能があるということなんだから、「ミュージシャン」だなんて、音楽に特化した呼び名で括るのは間違いだと思っている。