一憩合格は終わり。
一憩合格「は」ね。
コロナが出てきたのをキッカケに外に出なくなって、コロナとは関係ないけど身近な人が相次いで亡くなって、これまで全く付き合いのなかった親族的な関わりに奔走して…という中で常に考えていたのは「音楽やらねば」だったが、「やらねば」という意識に違和感を通り越してストレスが出てきた。「自分にはこれしかできない」というのが根にあって、音楽を「やらねば」という義務的なものとして捉えるのが馬鹿らしくなってきた。一度、完全に手放してみてはどうか。
もう以前のような憤りも怒りも苛立ちもないし、もう本当にどうでもいいんだけど、巷の「音楽好き」を自称してる人たちの聞いてる音楽の何が良いのかさっぱりわからないし、聞き方が理解できないし、音楽やってる人たちの品の無さと頭の悪さは…もう何度も書いてきたから言わない。とにかく、俺が音楽やる意味あるのか?と考えた場合に「ない」としか言い様がない。曲を作って、「お!これは名曲や!」という手応えを感じると同時に「また『わからへん』って言われて終わりなんやろうな」と思って、その通りになって…という流れに飽きた。慣れ過ぎてもう腹も立たんけど。
音楽。聴くのは別として、やる事については一回完全にやめたろ!忘れたろ!と思ったら俄然気が楽になった。一旦、完全にやめてみよう!忘れてみよう!それで俺が死んだとて、俺の作った曲が消えてなくなったとて、全く何の問題もない。
一方。たまにYouTubeを見ると自分の映像の再生回数が伸びている。これは素直に嬉しい。リアクションがあるというのは嬉しい。本当に嬉しい。頭の上に「?」を浮かべているアホな客相手にライブやるより、たかが「1」されど「1」。友達いないんだろうな。でも、それは俺も同じ。ありがとう。感謝。だから、また映像は撮るかもしれないし、撮りたい。
長く続けてる?だからどうした。演者同士褒め合って仲良しこよし、アホな客をアホなまま放置して意味のないライブを繰り返しやる事に何の意味がある?何も残らず、残す意志のない表現の繰り返しに何の意味がある?
めんどくさっ!
しょうもなっ!
や〜めたっ!
実家で物品整理をしていたら出てきたmy first guitar。中学の時、ストーンズの初来日公演を観て脳みそ爆発した勢いで押し入れから引きずり出してきて夢中になって弾いたやつ。ホールを覗き込むと筆字で「全ての音楽愛好家に捧ぐ」みたいな事が書いてある得体の知れない日本製。徹底的に自分の物にしたくて大阪城ホールにジョージ・ハリスンのライブを観に行った時に買ったさほど好きでもないエリック・クラプトンのステッカーを貼ったり、ジミー・ペイジのシンボルマークを描いたり、左肩の部分に何だかよく分からない塗装を施したり、無意味にロッドカバーをはずしたりした。でも、もう必要ない。場所を取るし心苦しいが破棄せねば…と思っていたら親戚が引き取ってくれる事になった。いとこの娘さんがギターを弾いてみたいのだそうだ。
楽器ってホント上手いこと命拾いしよる。
実はブログを休止してる間にある人から助言を受けて、YouTubeで観てもらえる各動画の説明欄に歌詞を載せておいた。一切公表しなかったから誰も気付かないだろうと思っていたのだが…いた!そして、ウクレレで「未来へ」をカバーしてくれた!
素晴らしい!嬉しくて手が震えたぜ!ありがとう太田くん!
通学、通勤の際、いつもの道を少し変えてみるだけで違った景色が見えてきて新鮮な気分を味わえたりする。それと同じ理屈で最近、CDのランダム再生にハマっている。
聴き飽きるほど聴いてきた作品はもちろん、近頃聴き慣れてきたなという感じの作品についても、予期せぬ曲順で聴く事によって随分と新鮮な気分を味わうことができる。
オススメは曲数の多いベスト盤。個人的にはコレのランダム再生が気に入っている。どこを切っても美メロ滴るレモンのようなアルバムなのだが、ランダム再生することによって絞り方が変わって味わいが変わる。
是非あなたもお気に入りの一枚でお試しあれ。
主観が過ぎてしんどかった。長いこと過度に主観で物事を捉えてきた。「物事」には自分自身も含まれるから、本当にしんどかった。自分の身体から見える範囲のものだけを見て、聞いて、感じていた。全てが自分の目と鼻の先にあって、入ってくるもの全てが減速する事なく突き刺さってくるようで痛かった。精神的に常に過敏な状態にあった。興奮状態にあった。「ボクサーは殴られるのが嫌だから殴る」と誰かが言っていたが、常に何かを、誰かを殴っていないと不安だった。無駄な闘争心があって、この闘争心に「好きな色は?」と尋ねたら「赤」という答えが返ってきて、他の色には一切興味を示さなかった。
「主観」の対義語は「客観」。主観が過ぎてしんどいのなら客観で物事を捉えれば良いのでは?と言えそうなものなのだが、自分に固執して生きてきた根っからの主観人間が客観で物事を捉えるというのは至難の業。他人目線で物事を捉えるには他人になり切らないといけないような気がして腰が引ける。結果、二兎を追う者は一兎をも得ず、中途半端に片足は他人、片足は自分という不恰好になって、他人と自分が反発し合った場合に身体が真っ二つに裂ける…という最悪の事態を想像してしまう。無理。
主観に限界が来ていて客観も無理…万事休した時、知った言葉が「俯瞰(ふかん)」だった。自分は自分のままで良い。他の誰かになる必要もない。ただ頭上高くから視野を広く持って、自分と自分を取り巻く状況を見下ろす。これが「俯瞰して捉える」という事。これを知って劇的に肩の力が抜けた。幽体離脱ではないが、自分から自分を抜く。ある意味、自分を手放すという事。かごの外に出してやる。他人目線で自分を見るのではなく、自分自身を離れた所から見る、捉えるという事。これならできる!と思った瞬間から無駄な闘争心がなくなって、赤以外の色も綺麗だと思うようになった。青や緑も綺麗だと思うようになった。特にアップルグリーンなんて素晴らしい!何故そう思えるようになったのか。たぶん、視野が広くなった分、自分自身を多面的に見られるようになったからだと思う。自分は、赤い時があれば青い時もあって、緑の時もある。それこそ秒単位で変化変色し続けているカメレオンのような生き物なんだという事に気付けたからだと思う。
過去に戻れるとしたらいつに戻りたい?なんて事をたまに訊かれるがいつにも戻りたくない。
今現在の自分が一番好きだ。
Amazonのアルバム・レビューを読むのが好きでよく読む。今日はポール・マッカートニーのアルバム『ヴィーナス・アンド・マーズ』のレビューを読んでいたのだが、その中に独特なセンスを感じる、素敵に壊れた文章を見つけた。これを書いた人に会ってみたい。なかなか書ける文章ではない。たぶん、友達いないと思う。
昔から大好きなアルバムでした。
レコードは擦り切れるほど聴きました。
一緒に歌っていました。
なのでよく覚えています。
買ったばかりのVictor のCD ラジオが素晴らしい音質でうっとりして聴きました。
昔のポールマッカートニーとWings のレコードにはリンダが撮ったポスターやメンバーの写真などとにかくおまけがたくさん付いていて楽しみでした。
リンダがバツイチだったとは知りませんでした。
できちゃった結婚でしたがデザイナーのステラは二人の娘です。
ステラの商品は高過ぎて買えません。
ステラには星という意味があります。
ラテン語だったかもしれません。
リンダはスペイン語でかわいいという意味です。
私も結婚前に1人でヨーロッパに行き、スペインの街を歩いているとスペイン人の男の子たちからQue lindaとよく言われました。
イタリア人の男の子たちからはイタリア語でキスしていいか?とスペインの街の駅で列車を待っていたら話しかけられて、断ってイギリス人の男の子とイタリア人の男の子たちがイタリア語とスペイン語で話していました。
ポールだけでも1870億ぐらい持っているらしいです。
ビートルズは一度の公演で80億稼いでいたと書いてあり、とにかく桁違いで何にも言えませんでした。
一番たくさんレコードを録音したのはバーブラストライサンドかもしれないですが、今でも売り上げが一番多いのはビートルズです。
私より18歳年上のポールは今年80歳ですがまだまだ意欲的に音楽に向かっていますが今のポールには興味はないです。
リンダがまだ元気でバンドのメンバーだった70年代が一番ポールが歌が上手かった気がします。
この頃の作品が脂に乗っていると思います。
兄がRamを持っていて私は聴きませんでしたがMy Loveは大好きでした。
この歌もよく一緒に歌っていました。
学生時代は付き合っている人を家に連れて来てはロング&ワインディングロードの弾き語りを聴かせていました。