友達に顔を

たかがFacebook。されどFacebook。

Facebookをやってると、人が、人間関係というものをどう捉えているのかがよくわかる。

俺みたいに、Facebookの「友達」を、あくまで「Facebookの友達」だと割り切れない奴は稀で、皆、俺にしてみれば不思議なくらい、上手く割り切っている。仕事で、円滑な人間関係の為にやっている人が社会人らしく綺麗な割り切り方をしているのはわかるけど、あくまで私的に、個人的感情の下でやってる人が見事に割り切った使い方をしているのには驚かされる。とはいえ、俺だって、Facebookの「友達」が本来の友達とは意味合いが違うことくらいわかっているし、それなりに使い分けてるつもりだけど、それにしても、世間一般と比べると、割り切り方がシャープではない。デジタルではない。俺の思考回路はデジタルなものを扱うにはアナログ過ぎるのかもしれない。

人は、何百人、何千人と「友達」が存在する状況を異常だとは思わない。そして、そうやって、掃いて捨てるほど「友達」がいるにも関わらず、「いいね」等のリアクションが、「ちゃんと見てるよ」という気持ちの表れが、20とか30とかしかないことに疑問を感じることもない。また、自分が幾度となくリアクションをした、元はと言えば「友達になって下さい」と言ってきた相手からの自分の記事に対するリアクションが一切なくても少しも腹を立てず、相手の人格を疑うようなこともない。

皆、器がデカいというか、落ち着きがあるというか、薄情というか…どんだけ人間できとんねんと思う。

俺はどうしても、「友達」と呼ぶ以上は…などと考えてしまう。同時に、余計な人間関係ほど重く、面倒なものはないから、「質より量」的な考え方はもってのほかで、理想的には「質も量も」だが、それはあくまで理想論なので、「量より質」的な考え方を良しとしてしまう。結果、「要るものは要る。要らないものは要らない」という、断捨離の考え方を人間関係に持ち込んで、押し進めて、「少数精鋭」という言葉があるのを良いことに、じゃんじゃんじゃんじゃん人との関係を断ってしまう。この辺の見限りの速さ、シャープさは人一倍デジタルなんだけどな…。

ま、俺は俺なりに自分の中の常識や道徳に基づいてやってるわけで、一概に間違えてるとは思わないんだけどね。ただ、他の人たちとの認識のズレがあまりに甚だしいものだから、時々、気になるんだよね。でも、一つだけはっきり言っておきたいのは、俺が「友達」と呼ぶ人たちは、それが本来の意味の友達であれ、Facebookの友達であれ、数として捉えることなく人として捉えている、自分にとって意味があると思っている人たちだけだということなんでございますよ。


初夢

夢に兄貴が出てきた。

夢の中で俺と兄貴はめちゃくちゃ仲の良い友達だった。

雨が降ってきて、兄貴は外に置きっ放しになっていた物を次々とビニールでできたテントのような小屋の中に避難させていた。

俺はその手際の良さに感心しながら、用事を思い出して少し兄貴から離れた。と、その瞬間、空から猛烈な勢いで渦巻く透明の雷のようなものが落ちてきて、兄貴のいるテントを直撃した。

ゔわあああああああああああああああああ!

うなされて目が覚めた。

目を覚まして、身支度を済ませて家を出て、雨の中、傘をさして職場へ向かう道中、安否確認をするかの如く、兄貴のニューアルバムを爆音で聴いた。

生きていた。


「いい人」について

俺の大好きな野村克也さんの新しい本、名言集みたいな本がコンビニに並んでいたので立ち読みをしたら、「そう!そうやねん!!」と唸ってしまう、震えるほど嬉しい一言があった。

「いい人」は信念に欠ける。

先日、ある友人が「何が嫌いって、八方美人な奴が嫌いや」と言って、あまりに同感なので笑ってしまったのだが、なぜ八方美人が嫌いなのかと言えば、そう、まさに「信念に欠ける」からで、なぜ信念に欠ける人間が嫌いなのかと言えば、常にどっちつかずで信用できひんからなんだよなと思った。

「いい人」は信念に欠ける。

さすがは名捕手。外角低めにビシッときてる。


ロックたれ

年がら年中、「ロックとはなんぞや」ということを考えている。学生時代から今に至るまでずっとだ。で、その都度考え方は変わるんだけど、今、40歳の俺はこう考えている。

ロックは「信用」だ。

くだらないバンドの音楽を聴いたり、ライヴを観たりした時、「嘘をつけ!」と思う。不思議と「嘘」という言葉がしっくりくる。下手クソでもいい。馬鹿でもいい。正直であればいい。愚直であればいい。ロックとはつまり、そんな芸術表現のことだから、嘘が水に垂らした油のように一目瞭然な浮き方をする。

気に食わないものがある。気に入らないことがある。でも、それを口にしたら他人に拒絶されるような気がして怖いから口にしない。黙ってる。僕は嘘をついているわけじゃない。黙ってるんだ…なんてことを、ロックやってる分際で思っている奴がいたらそれは間違いだと言いたい。ロックやってる人間が言いたいことを言わずに黙っているというのは、言葉巧みに裏腹なことを言うよりもずっとタチの悪い嘘だ。


初詣

昨日、毎年恒例、俺の守護神がおるとされる神社へ初詣に行ってきた。

今年、俺は本厄らしい。

おみくじを引いたら末吉だった。

本厄なら凶、もしくは白紙が出んとおかしいし、厄祓いに払う金があったら、大晦日から元日にかけて夜勤をしていた介護職の人にあげた方がずっと御利益を見込めるという気持ちに一点の曇りもないので、気にしない。


今年のテーマ

「自信」

昨年一年を通して、見たり聞いたり考えたり感じたりしたことの全てを一つの言葉に落とし込んで今年のテーマに据えるとすれば、これしか思い浮かばない。昨年一年を終えて、自分の掌の上にあった言葉がまさにこれだったから、これを今年のテーマとする。

言葉ほど重いものはないが、軽いものもない。何とでも言える。だから、真偽のほどが疑わしい言葉が入ってこないように耳を塞いで、目を凝らして行動だけを見れば、その人の自信のほどが伺える。やはり、自信のない人は自信のない動き方をしているし、自信のある人は自信のある動き方をしている。

人間は自信に見合ったものを選ぶ。どんな物を選び、どんな人を選び、どんな場所を選ぶのかは全て、自信の有無にかかっている。だから、今年俺は、自分の見方や、考え方や、感じ方を全面的に信じてみることにした。つまり、他人のフィルターを通してものを見るということの一切をやめることにした。

とはいえ、ないものを「ある」と言う必要はないし、これまでも、ないのに「ある」と言った覚えはない。が、あるのに「ある」と言ってこなかった覚えがあり、それが自分の可能性を限定してしまっていたように思う。

「自信がある」と言うことはハードルを上げることになる。でも、そもそも、ハードルというものは上げることに意味がある。人よりも高く上げられることを誇るものであって、人よりも低く下げられることを誇るものではない。

可能な限り自分を信じて、可能な限りハードルを上げる。余裕で越えられる高さに設定したハードルを何度も越えてみせて、越えるたびにドヤ顔を浮かべているような奴は、いずれ、その高さすら苦にするようになる。


バンドやってるバンドマンをぶっとばすバンドやってないバンドマンの肖像

一般の人たちの中には、「バンドマン」と聞いて、どこかブッ飛んだ、特殊な人種を思い浮かべる方もあるかと思う。かく言う俺もそう思っていたし、バンドマンのいる世界に治外法権的な自分の居場所があることを期待していたのだが実際は…普通である。ガッカリするほど普通で、人並みに一般常識に精通していて、縛られていて、どこか諦観があって落ち着きがあり、「計算高い」という部分に於いてのみ熱みたいなものを感じさせる残念な人種なのである。

確かに、容姿や歌詞の内容や音のデカさはブッ飛んでいるかもしれない。でも、容姿や歌詞の内容や音のデカさでブッ飛び感を出すことほど簡単なものはない。本来は、容姿も歌詞の内容も音のデカさも一般の人たちが理解できる範囲内にありながら、トータルで見た場合に明らかに「普通」という言葉の枠外にあるもののことを「ブッ飛んでる」と言う。

俺自身について言えば、もうちょいブッ飛ばねばと思うくらいブッ飛んでいるという自覚がない。でも、ブッ飛んだ人間に憧れてブッ飛んだ人間を演じておきながら、実際にブッ飛んだ人間が現れると「常識がない」などと言って嫌悪感を覗かせるバンドマンに敬遠されてるのを感じることが多々あるから、たぶん、ブッ飛んでなくはないんだろう。それに、俺のことや、俺の音楽を気に入ってくれている人たちは見るからに変わり者の、ブッ飛んでる人が多いから、「類は友を呼ぶ」のなら、俺もやっぱりブッ飛んでなくはないんだろうと思う。

良いことだ。有り難いことだ。

社会人としてイケてなくても、バンドマンとしてイケてりゃそれでいいんだし、バンドマンとして凸な人間は、例外なく、社会人としては凹なんだから。