歩くのが好きだ。車なら10分、チャリンコなら20分で到着するところを30分かけて歩く。大阪にいた頃は電車通勤すべき距離を片道45分かけて歩いていた。交通費を浮かそうなんて魂胆は微塵もなく、ただ歩きたかった。
「過程の中にこそ滋味が転がっている」と考えるのか、過程なんぞすっ飛ばしていきなり目的地に辿り着こうと考えるのか。この違いがアナログとデジタルの違いだと思う。
端的に言えば、アナログには式だけがあって答えがない。もちろん、式がある以上、答えはあるのだが、答えを伏せて、式そのものを答えとする。俺が書く歌詩なんてまさにそう。答えを言えば3秒で済むところを3分かけて式で表現するから、答えありきの歌詞しか知らない人はたちまち「わからない」となる。一方、デジタルは答えだけがあって式がない。これはつまりどういうことかといえば、式が無数にあるということ。例えば「176」という答えがあるとして、そこから式を導き出せと言われても困る。だって、そんなもの、数限りなくあるんだから。なので、式は考えるだけ無駄。面倒臭いから無かったことにして、「始めから答えしかありませんでした」と開き直るのがデジタル。
「過程をすっ飛ばしていきなり目的地に辿り着く」デジタルの究極形はどこでもドアだと思う。パソコンやスマホはその雛型だろう。人を駄目にするという意味を含めて、いい線行ってる。じゃ、アナログの究極形は?カッコ付けるわけじゃないけど、人生ではなかろうか…と思う。
死ぬ間際に一生を振り返る。ありとあらゆる記憶が走馬灯のように頭を巡るが、それが一体何だったのかという答えは出ない。で、息を引き取る瞬間に、記憶の走馬灯そのものが答えであることに気付く…という感じなのではなかろうか。デジタルに言わせれば「0」と、ピーっていう音の他に何もない。それが全てだという話なんだろうけど、アナログなら、答えは同じ「0」でも、そこへ至るまでのことを色々と考えさせてくれて、何かしら意味を感じさせてくれるんじゃないか?と思う。
今回の投稿は全文記憶しないといけないくらいで、困惑してます。
俗に言うデジアナ論争ではあーでもないこーでもないだが、これは達観している。
怖いくらいです。
思わず携帯会社を解約しました。それは病気かもしれんが、
一度すべての事柄をリセットする必要を感じた。仕事も辞めるかもしれん。
もはや、アナログが正解、本物でデジタルは偽物とかいう一編の解釈では
生きてゆけない。
ありていに言えば、共存すればいいなどという輩が出てくる。
これは主義の問題ではないだろうかとも考えた。
以前、「モノより思い出」というフレーズから成るCMがありましたが、あれは実に危険なフレーズですよ。だって、僕には「アナログよりデジタル」に聞こえる(笑)
実体のないものが実体のあるものより良しとされる。実体のないものを扱っても、扱った実感が湧かず、形として後に何も残らないのに。
霞(かすみ)は仙人の腹は満たせても、我々生身の人間の腹は満たせない。ギャル曽根ばりの勢いで大量に霞を食っても空腹は空腹。「大量に食った」という記憶だけを頼りに生きていけると考える人を待つのは餓死のみです。
デジタルって霞のようなものだと思います。もちろん、アナログを全肯定するわけじゃないし、肉や魚を手掴みで餓鬼の如くに貪り食えと言いたいわけじゃありませんけどね(笑)