歌詞を考えていると何度も何度も壁にぶちあたる。まるで迷路の中を彷徨っているような感じ。ある程度進んで、「もしやこの道で正解か?」と思ったのも束の間、突然目の前に巨大な壁が現れて別の道を探さないといけなくなる。近くに別の道が見つかれば良いが見つからない場合には来た道を引き返して一からやり直さないといけない。
壁にぶちあたらない事を祈りながら歩く。壁にぶちあたったら別の道を探す。別の道が見当たらなかったら来た道を引き返して一からやり直す。これの繰り返し。苦行。
人間、生きていると何度も何度も壁にぶちあたる。それは、世の中が作りだした壁だったり、自分が作り出した壁だったりする。世の中が作り出した壁にはまやかしとまやかしでないものがあって、まやかしはぶち破れば良いが、まやかしでないものは俗に「ルール」と呼ばれるものなので黙って従わねばならない。一方、自分が作り出した壁には自分が作り出した自分の「限界」と、自分を守るためにあらかじめ設置しておいた壁があって、限界の壁はぶち破れるものはぶち破るべきで、自分を守るために設置した壁は、自分の事は自分が一番よく知っていて、その自分が自分を守るために設置した壁なんだから、これをぶち破る馬鹿はいない。
つまり、世の中が作り出したまやかしでない方の壁と、自分が作り出したぶち破れない限界の壁は、ぶちあたったら、別の道を探すか、来た道を引き返して一からやり直すしかない。この場合、別の道を探すにも、来た道を引き返して一からやり直すにも、必要不可欠なのはアイデアだ。創意工夫だ。壁にぶちあたるたびにアイデアを捻り出して、創意工夫して、そうして人間は成長していく。が、中には、「ぶち破れないのなら乗り越えれば良いのではないか?」と考える人がいる。しかしながら、自分が作り出したぶち破れない限界の壁をよじ登って向こう側へ行こうとする人はいない。なぜなら、自分が作り出した壁。壁の意味を知っているだけに、潔くその道を諦めて別の道を探すことになる。ただ、世の中が作りだしたまやかしでない方の壁については、これをよじ登って向こう側へ行こうとする無茶な人がいる。高い高い壁。よしんば登り切れたとしても、降りることができない。足を滑らせて落ちようものならえらい事になる。落ちて、向こう側に落ちて、ギリギリ死なずに済んだとしても、そこに道が続いている保証はない。
アカンもんはアカン。なぜアカンのか。その理由を考えている暇があったら別の道を探せ。何もわざわざ命を危険に晒してまでその道に固執する必要はなかろう。
ということを今回、ピエール瀧の事件を受けて思った。