見え方、感じ方は人それぞれで、誰もが自分と同じように物を見ているわけではないし、感じているわけではない。でも、他人と上手くやっていこうと思えば、どうしても自分の見え方、感じ方にアレンジを加える形で他人の見え方、感じ方を読んでいかないといけないのは事実で、この読みには「ある程度の間違いは仕方がない」という観念が要る。「自分は自分。他人は他人」などと、簡単に割り切れるものではない。あくまで「自分」に基づいた想像力が無いと、対人関係なんて上手くやっていけるわけがない。対人関係というのは、徹頭徹尾、想像力の問題で、乱暴に言えば、いかに上手く予想できるかの問題だと思う。
たかが予想。されど予想。
ただ、ごくたまに、予想なんて面倒なことの一切をやめて、「自分は自分。他人は他人」だとあえて割り切って、「本当のところはどうせわかりゃしないんだから」と全てを成り行きに任せた場合に、対人関係に於いて自分の首を絞めていたのは自分だったんだということに気付かされるような真っ白な空間にポンと放り出してもらえることがあったりもする。
ところで、私、常日頃思うに、思考回路というものは時計と同じ形をしている。始点に於いて針は9時の方向を指していて、その人が物を考え始めると時計回りに回り始める。そうして考え始めて、一番クリアで正解な面白い発想が浮かぶのは針が180度回転して3時の方向を指している時。ここから先は早くも「考え過ぎ」の領域。よせばいいのに深入りに深入りを重ねた結果、針が360度回転して再び9時を指している時の発想ほど不毛なものはない。ま、私はこれを年がら年中、性懲りも無く繰り返しておるわけだけれども…。
予想し過ぎることの無意味。
分析し過ぎることの無意味。
考え過ぎることの無意味。
博打打ちなら誰でも知っていることなのではなかろうか。