或るかけがえのない旧友への密使

あの時、嘘でも柔らかく「帰って来て」と言われていたら俺は一縷の望みに賭けて帰っていたと思う。威圧的に、ヒステリックに「帰って来い!」と言われたから、「なんでわざわざそんなクソ窮屈なとこに帰らなあかんねんボケ!」と言い返した。そして、それから二度と帰ることはなかった。ギリギリのところで命拾いした。阪急宝塚線山本駅。踏切手前の本屋の前。9年前の出来事である。

鰻は捕まえようと力めば力むほど逃げる。猫じゃらしだって力を入れて握ると逃げようとする。これは人間も同じで、無理矢理、力任せに従わせようとすれば逃げようとする。自然なことだと思う。従わせようとした人間は逃げた人間のことを負け犬呼ばわりするかもしれないが、厳密に言えば「逃げた」じゃなくて「逃した」だ。お前の力任せなやり方が相手を追い込んで、逃がす方向へ逃がす方向へ作用しただけじゃないかと思う。頭が悪いにも程がある。

鰻が逃げる時、猫じゃらしが逃げようとする時、どこにも力みがない。そして、人間の身体は力みさえしなければ水に浮くようにできている。力み=不自然。人間、心の持ち様が自然であれば、おのずと解放される方向に流れていくのではないか?

理不尽な押さえつけられ方をしている時、耐え忍ぶ、黙っている、というのは不自然だ。苛立つのが普通だろう。この場合の「怒」は至って自然。だから、怒りの感情があれば、極端な話、放っといてもいずれは解放されることになると思う。一方、黙って耐え忍んでいる人というのは、力みのある鰻のようなもの。すぐに捕まって、捕まえられたら握力に負けてヘコむしかない。「凹む」と書いて「ヘコむ」と読むが、はたから見た形状が本当に「凹」になってしまう。それでもなお、怒りを押し殺して、息を、言葉を吐くことなく吸って飲み込んでばかりいたら、そんな、不自然なサイクルに呑まれ続けていたら、それはもう握りつぶされるしかない。ま、一度完全に握りつぶされて、一からやり直すというのなら話は別で、それはそれで一つの手だとは思うけど。

ヘコむのと怒るのと、どっちがしんどいと思う?怒る方がしんどいと思ってないか?俺も昔はそう思っていた。でもそれは大きな間違い。怒るのは確かにしんどい。でも、ヘコんでいる方がずっとしんどい。不自然だからしんどい。しんどいばかりで一向に物事が前に進まない。ヘコんでいれば誰かが救いの手を差し伸べてくれるかもしれない。でも、自分で自分を救う気がないから結局は救われない。自分のせいではないものまで自分のせいだと言って背負い込んで俯いて歩く。そんな時代遅れな日本人の美徳みたいなものを今時誰が褒めてくれるというのか。

9年前のあの時、あの瞬間、それまでずっと歩く凹でしかなかった俺がキレた。何もかも終わったと思った。実際、終わったんだけど、今にして思えば、新しく夢のある物語が始まった瞬間でもあった。今、俺は自分でも信じられないくらい幸せだけど、この幸せは、あの一生に一度とも言える凶暴で爆発的な怒りがなかったら有り得なかった。


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