蝶になる!

ご存知の通り、俺は無類の蝶好きだ。最近、元気に飛び回っているのをよく見かける。嬉しい。で、考える。蝶は芋虫の時、自分が蝶になることを知っているんだろうか。それとも、ある日突然蝶になって驚くんだろうか。もしくは、いつか蝶になれると信じているんだろうか。自分の将来について、「信じている」のと「知っている」のとでは意味が大きく違ってくる。

昔読んだ本の中に「本当に夢を叶えたければ、夢が叶うことを「信じている」とは言わずに、夢が叶うことを「知っている」と言いなさい」というのがあった。天才の上に鬼才があるように、夢の叶え方については「信じている」の上に「知っている」があるらしい。

芋虫として生きるのはさぞかし不自由で窮屈なことだろうと思う。もし芋虫が蝶という目標を知らずに一生芋虫として生きていかねばならないと考えていたとしたら…。蝶は高嶺の花で、自分のような醜い者には縁もゆかりもない別次元を生きる生き物だと考えていたとしたら…。それでも前向きに頑張って生きて、葉っぱ食って食って食って、ある日突然蝶になっていて「万歳!」となれば良いが、不自由で窮屈な毎日に終わりが見えず絶望するようなことになれば、そこら中に自害した芋虫の亡骸が転がることになるのではないかと思う。つまり、芋虫が芋虫を頑張れるのは蝶になるという目標があるからで、人間が人間を頑張れるのはなりたい自分になるという夢があるからだと思う。

自分の将来が最も望ましい形で訪れるのを「知っている」というのはそれこそ鬼才の発想。選ばれた人にしかできないのかもしれないし、選ばれている時点で「叶える」という言葉に違和感を感じる。我々のような普通の人間、頑張って天才止まりの人間にしてみれば夢はあくまで叶えるもの。叶えるものである以上は信じないといけないし信じるしかない。夢が現実になることを知っているわけでもなく、夢らしい夢がなくても前向きに生きていけるほどタフでもない人間はとにかく信じるしかない。他に選択肢はない。でも、信じる気持ちさえあれば、少なくとも自殺なんてことは考えずに済むように思う。

たまに蝶が嫌いだと言う人がいて、その理由が「胴体の部分が気持ち悪い」だったりするけど、あの胴体はいわば芋虫時代の名残。あれがあるから蝶は不自由とは何か、窮屈とは何かということを片時も忘れずにいられて、自由に飛び回ることの有り難みを切実に噛み締め続けることができるのではなかろうか。大体、胴体がなくて羽根だけがあるという生き物がいたらそれこそ気持ち悪いだろう。蝶も人間も、納得のいかない自分を経ずして納得のいく自分にはなれない。そして、変身を遂げた後もどこかに必ず苦労した「下積み時代」の名残が残って、だからこそ美しい。生まれた時から蝶。生まれた時から理想的な自分。そんなのはあり得ないし、いたら相当気持ち悪い。そういう意味では「知っている」というのも、なんだかちょっと気持ち悪い。

信じているからこそ努力する。知っていたら努力なんてするか?俺だったらしないな。それはたぶん芋虫も同じ。っていうか、そういえば俺自身が芋虫だ。思えば随分長いこと芋虫やってる。だから、そう、『芋虫は蝶になることを知ってるんじゃなくて信じている』これが結論だ。答えだ。俺が言うんだから間違いない。

芋虫が言うんだから間違いない。


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