楽しめないことを嬉しく思います

最近、音楽をやる側の人間の「楽しい」という言葉に抵抗を感じる。どいつもこいつも口を開けば、楽しい、楽しい、楽しい、楽しい…お前らは白痴か!と思う。

音楽やってる人間が口にする「楽しい」と、宗教やってる人間が口にする「心」に、同じ響きを感じる。それぞれがそれぞれに、切っても切り離せない言葉なのはよく知ってるつもりだけど、大抵の場合、いずれも漠然としたニュアンスだけがあって、中身がない。ペラペラなのだ。

私は、ライヴを「闘いの場」と捉えることしかできないから、「楽しい」がよくわからない。でも、「嬉しい」ならよくわかるし、「嬉しい」の方がずっと大事なんじゃないかと思う。

「楽しい」という言葉に、独りよがりな、自己完結してしまっている感じがあるのに対して、「嬉しい」はもっと、人との関わりが前提になっている感じがある。例えば、「今夜のライヴは楽しかった」と言った場合、そこに、お客さんの存在を感じるのは難しいことだけど、「今夜のライヴは嬉しかった」と言った場合には、そこにちゃんとお客さんの存在と反応を感じることができる。

音楽をやる側の人間が「楽しい」に終始してしまっている間は、ライヴハウスと一般の人たちとの間にある垣根は取り壊せないと思う。内輪内輪で盛り上って、賞賛し合っている内に、自分たちと一般の人たちとの間に救い難く太くて濃い線を引いてしまっている。

音楽やる側の人間は、自分たちのいる世界が、一般の人たちがいる世界よりもずっとずっと狭くて小さいんだということを知らないと駄目だ。

「嬉しい」を目指して頑張る。頑張ったけど嬉しく思えなかった場合には「悔しい」と思い、悔しいからまた頑張るーというサイクルが音楽をやる側の人間にあれば、お客さんはきっと「楽しい」と言ってくれる。

そして、喜んで、我々の世界に遊びに来てくれるようになる。


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