私はFacebookという世にも稀なる純真な世界を大いに愛し、また、憂う者である。
私はFacebook上に公開されている記事の中にしばしばFacebookの記事として相応しいとは思えない記事を見つけて煩悶とする。FacebookはFacebook上で公開するに相応しい記事なのかそうでない記事なのかを判別する明確な基準を設け、公開する/しないの判断を厳格化すべきである。
私は寝食を忘れて熟考を重ね、遂にその「明確な基準」として機能するであろう「鍵」の存在に気付くに至った。「鍵」とはつまり一つのワードのことである。提案したい。
「せんせいあのね」である。
ユーザーが公開を希望している全ての文章の冒頭に「せんせいあのね」を添付し、「せんせいあのね」が違和感なく馴染んでいる文章なのかどうかを見るのである。馴染んでいればFacebookに載せる記事として相応しいから公開するが、馴染んでいなければ到底相応しいとは言えないので公開を見送る。このシステムを確立することができれば、Facebookは常にFacebookらしい純真を維持できるはずである。
Facebookというネヴァーランドの如き無垢な世界にあって、知性などというものは穢れた大人の屁理屈に他ならない。また、美しき絵文字の羅列に異を唱えるが如き文章力などというものも、Facebookの世界にあってはピーターパンの飛翔を妨げる足枷であり、下品な虚飾、まやかしに過ぎないから、「せんせいあのね」によってこれらを一つ残らず炙り出し、我等が愛すべきFacebookの世界から永久に追放すべきである。
ところで、私は不本意にも「奇人」或いは「変人」などと呼ばれている。また、非常に不誠実な男だとも言われている。なるほど、私には酒を酌み交わし、青き日々の恋を語らい、共に夜を明かすような友などただの一人もいないし、ごく稀に思い出したかのように誰かから「生きているのか?元気なのか?」といった内容の手紙が届いても、面倒なので返書をしたためた試しがない。だがしかし、それが何だというのだろう。私は孤独ではない。なぜなら、私にはFacebookに528人もの友がいるからである。
59歳 無職 ストコドコーイ