うんとすんの間

小4の時、先生に「うんとかすんとか言え!」と言われたガキ大将が「すん!」と答えて張り倒されたことを覚えている。

自分自身のことを棚に上げるつもりはない。俺自身、そうなのだが、NOが言えないことを気に病んでいる人の辛さは、NOの他にはYESしかないと考えているところにあると思う。YESとNOしかなくて、NOが言えなかったら、それは、ただ黙ってベルトコンベアに乗っているだけのようなもので、そんな人生は人生じゃないし、「無理がある」どころの話じゃない。

人生、二択を迫られることが多い。迫る方は「どちらか選べ」とエラそうに選択肢を与える素振りをしているが、顔には「ま、YESしか認めんけど」と書いてある。そうして、無理矢理にでもYESと答えることを美徳とするような空気が生まれて、その中にあって「すん!」と答えると張り倒されるから、大抵の人は黙ってベルトコンベアに乗る。冒頭に書いたガキ大将も、あの時、張り倒されて泣いてしまってからというもの、ガキ大将の座から引きずり降ろされて、先生の顔色ばかり窺う犬みたいになってしまった。

NOが言えるというのは、張り倒されることを覚悟するということ…と、言うのは簡単だが、誰だって出来ることなら張り倒されたかない。でも、これは是非とも克服したい。いつか必ず、どこかのタイミングで、NOと言える人間になりたいし、ならねばならない。とはいえ、今すぐというのは無理な話。時間をかけて付けた癖は、時間をかけて治さねばならない。時間がかかる。逆に言えば、時間をかける価値があるのだが、では、NOと言える人間になる為の努力に時間を費やす間、どうすれば良いのか。ベルトコンベアに乗りながら克服出来るほど器用な人間なら、とっくに克服出来ているだろう。そこで考えたのが、YESでもNOでもない、その中間。「どちらでもない」である。これを習得すれば、NOは言えずとも、YESと「どちらでもない」の二択を生きることが出来る。

「どちらでもない」には「受け流す」という意味合いも含まれている。のらりくらり、明言を控えて、事態が収束するのを待つ。迷いにあえいでいる自分の存在が火に油を注ぐ結果となって、事態の収束を遅らせている可能性だってあるんだから…なんてこと言うと、随分と腑抜けた考え方だなんて言う人もあるかもしれないが、これは昔から政治家の常套手段だ。あの人たちは馬鹿の一つ覚えみたいにあればっかりやってるからみっともないだけで、やり方としては、一つの処世術ではあると思う。この考え方に抵抗感があるという人もいるだろう。じゃ、お尋ねしたい。信号機には青と赤だけがあれば良いのか?

信号機に青と赤しかなかったとする。車で走ってみなはれ。一発で事故るから。信号機に青と赤しかない場合と、青と黄しかない場合と、どっちが事故が多発すると思う?間違いなく青と赤しかない場合だ。何事も、両極端、これが一番危ない。例えば、交通量の少ない田舎の道路で、青も赤も消えていて、黄だけが点滅している信号機を見たことがあるけど、あれは黄だからこそ務まる役目。

考え方に遊びのない人に限って黄を忘れている。でも、自分の中に黄を灯すのは、赤を灯すよりずっと簡単。だから、赤を灯せるようになるまでの間、その代役を黄に任せておいて、赤が灯せるようになった時に、三択を生きられるようになっている自分を人目憚らず喜べばいいと思う。


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