楽曲と豆

高校の時、ある洋楽雑誌を読んでいたら「独自編集オムニバスCDプレゼント!」というのを見つけた。収録内容を見ると、興味はあるものの金がなくてCDが買えないバンドの名前が並んでいて、しかも「応募された方全員にもれなくプレゼント!」と書いてあったので、慌てて応募した。

学校から帰ると郵便受けを覗き込む。が、届いていない…。という非常に狂おしい日々を経て、ようやく届いた時には爆裂に嬉しくて飛び上がった。

勢いよく封筒を破いて中身を取り出すと、「非売品」と印刷された白い厚紙が入っていた。今にして思えば生まれて初めて見た紙ジャケだった。第一印象は「貧相」。なんか業務的過ぎやしないか?と思った。でも、ま、そんなことはどうでもいい。問題は中身だ!CDを取り出してラジカセに入れて、深呼吸をしてから再生ボタンを押した。

忘れもしない、1曲目は当時アメリカでブレイクしていたソウル・アサイラムというバンドの曲だった。「よっしゃあ!来たあ!」ところが…感動に身震いしながら爆音で聴いていると、1回目のサビが終わったあたりでフェイドアウトしていくではないか。なにかの間違いだろうと思ったのだが、2曲目も3曲目も同じタイミングでフェイドアウトしていく。結局、全曲同じ有り様で、丸ごと聴ける曲は1曲もなかった。

キエエエエエエエエィ!!(俺の狂おしき日々を返せ!どないしてくれんねんアホんだらあ!!」の意)

発狂。気付けば、紙ジャケもろとも真っ二つに叩き割ってゴミ箱に叩き付けていた。屈辱…いや、汚辱であった。

例えば映画の予告編。あれは、作品全体から印象的なシーンをチョイスして組み合わせた濃縮感があるから良いんであって、あれがもし普通に始まって最初の盛り上がりが終わったあたりで「続きは映画館で」なんていって終わったら嫌だろう。それも予告編だということを知らずに本編だと思って観ていてそんなことになったら暴れたくもなるし、叫びたくなるのも当然だ。

楽曲に予告編なんていらない。2時間にも及ぶ大作というのならまだわかるが、大抵は4分とかそこらだろう。それをさらに短くしてどうする。スーパーの試食コーナーに豆が出してあって、一粒の豆を3つとか4つとかに切ったやつに爪楊枝を刺して並べてあったら嫌だろう。「いやいやいや、そこは一粒だせや!」とならんか?楽曲の予告編とはつまりそういうこと。

アルバムの予告編としてシングルがある。シングルの予告編としてさらにシングルを用意するのか?出し惜しみするにも程がある。何様のつもりだ!と思って、あのトラウマ「非売品」CDに入っていたバンドのCDは現在に至るまで買わずじまいの聴かずじまいである。

バンドに罪はないけれど。


解説『果物をてんこ盛った巨大なケーキ』

文化的に何もかも出尽くしたかのように見える現在にあって、斬新性を追求するというのはいわば修羅の道である。しかし、斬新性というものが常に衝撃的なものであるとは限らない。あまりのさりげなさゆえに、誰にも気付かれない斬新性というものも確かに存在する。例えば、この写真をご覧頂きたい。

言わずと知れたオアシスの1stアルバムのジャケットであるが、実はこの写真の中に、メンバーも気付いていなかったレコードジャケット史上初となる斬新性が潜んでいる。それは何か。そう、「フロントマンが寝そべっている」ということなのである。このアルバムが発表されるまで、フロントマンが寝そべっているレコードジャケットは存在しなかったのである。

では本題へ。今回、配信を開始した『果物をてんこ盛った巨大なケーキ』は「2021 remaster」となっている。リマスターというのはつまり、新たに画像処理を施したということで、具体的には<①照度を上げた②照明に揺らぎを加えた③歌詩を表示した>の3点なのだが、皆さんは「ん?」とお思いにならなかっただろうか。「この曲に歌詩表示要るか?」とお思いにならなかっただろうか。もしそう思われたのならお答えしよう。この曲だからこその歌詩表示なのである。

一聴、何の斬新性も感じられない曲である。がしかし、この曲には先程のオアシスのジャケットにあったものと同じ種類の斬新性が潜んでいる。歌詩の中の「大好きだ」である。

あなたの周りに「大好き」という言葉を使う男性がいるだろうか。大抵「好き」止まりで「大好き」はいないだろう。ましてや、40歳過ぎで…いないだろう。また、男性アーティストの歌の中に「大好き」という言葉が出てくるのを聴いたことがあるだろうか。アイドルでもないのに「大好き」と歌ってる奴を見たことがあるだろうか。ないだろう。女性アーティストならまだわかる。でもそれもアイドルとかそんなんだろう。男性アーティストで「大好き」という言葉を使ったのは後にも先にも俺しかいない。おそらく、日本音楽史上初なのである。

考えてみればおかしな話である。「好き」と「大好き」では熱量が違うのは明らかで、きちんと想いを伝えたいのなら「男だから」とか抜きに「大好き」と素直に言えばいいのに皆、恥ずかしがって言おうとしないし歌おうとしてこなかった。「好き」で「大好き」の熱量を表現しようと思えば、「好き」の前後に回りくどく様々な言葉を付け加えて「好き」を装飾せねばならない。だから、巷のラブソングはどれもくどくどと長く、『果物をてんこ盛った巨大なケーキ』は僅か2分30秒なのである。


復活の桃色恋歌

コロナコロナコロナ。終わりの見えない閉塞感。さすがに「もうええわ!」と思って、何か元気が出るものを!と、この映像を、新たに画像処理を施して復活させた。

しかしまあ馬鹿みたいな曲だ。でも、恋に落ちたら誰だって馬鹿になるし、馬鹿になれないようならそれは大した恋じゃないんだから、この曲はラブソングとして絶対的に正しいと自負している。

余計なことを考えずにただ楽しんでもらえたら嬉しい。

解説は後日。

LOVE&PEACE!


このどブスがあ!

最近、職場のBGMがクラシックからボサノヴァ・アレンジのインストJ-POPに変わった。

メロディーの良し悪しが手に取るようにわかる。どの曲もアレンジと音が全くと言って良いほど同じで、歌声も歌詞もないのだから、評価の対象となるのは原曲に忠実に奏でられるメロディーのみ。どの曲が化粧ありきで、どの曲がすっぴん美人なのかが手に取るようにわかる。

渡辺美里の「マイ・レヴォリューション」はすっぴん美人だと思った。メロディーだけで十分聴ける。米米クラブの「浪漫飛行」や、プリンセスプリンセスの「M」も素晴らしい。俺がこういった曲を褒めると驚くかもしれないが、良いものは良い。素晴らしいメロディーだと思う。

一曲だけ「うわぁ!やっぱりゴミだ!アレンジ云々は関係ない。クソくだらん!どんなに良い服を着せて入念に化粧を施したとてどうにもならん絶望的なブサイクだ!」と思って、自制が利かんくらいイライラして、殺意が芽生えたのはコブクロの曲だった。

なんていう曲なのか知らないし、知りたくもない。とにかく最低。このクソくだらないメロディーに鼻が曲がるほど臭い歌詞が乗るんだと思うとゾッとする。俺は譜面が読めないけど、こいつらの曲に関してはおたまじゃくしの並びを見ればゴミだということがわかるんじゃないか?とすら思った。

嗚呼…思いっ切りどつきたい。いつか、生放送の音楽番組で一緒になることがあったら俺、殴りかかるよ。

約束する。


コンセプトアルバム作り方講座

今年はライブをやるにしても5月以降になる。なので、音源の制作や見直しをする時間が十分にある。

一般的に、「良い音」というのは分離の良いクリアな音のことを指す。それはまあそれで良い。特に異論はない。何でもかんでも異論を唱えれば良いというものでもない。が、「好きな音」となると話は別で、クリアだから好きとは限らない。現に俺はデジタルな音よりアナログな音が好きだし、理路整然と作り込まれた冷たい音よりも粗雑で体温の感じられる音の方に想像力を掻き立てられる。粗雑で体温の感じられる音…長らくリリースが先送りとなっている俺のアルバム『爆弾』はまさにその金字塔で、さらに言えば、アコギ一本でこの音というのは下手をすれば音楽史上初かもしれない。

タイトルを『爆弾』としたのは、単純に、爆弾のような音だと思ったからである。爆音過ぎて音が割れ倒している。一般的なリスナーは「音が悪い」と言って拒絶するに違いないが、俺はこの音が好き。シスターマロンが「村八分のライブ盤みたいな音」と言っていたが、言われてみれば確かに、村八分の「発掘された」音に近い…ん?村八分のライブ盤みたいな音?

面白いアイデアが浮かんだ。

『爆弾』の特徴は、音からの情報だけでは、いつ、どういった環境で録られたのものなのかを察することができないということにある。実際には、2017年に大阪の扇町para-diceという地下にある非常に狭いライブハウスで録られたものなのだが、2017年であることも、地下の狭い空間であることも、音を聴いただけではわからない。なので、それを逆手にとって、唯一、近年の録音であることがわかるアルバム冒頭の「introduction」(会場で流れていたディスコ的なBGM)をカットして、さらに封入カードから「扇町para-dice」の表記を消してしまえば…面白いことになる。

まず、村八分の発掘盤を調べたところ、1972年のライブとあったので、『爆弾』を「1972年のライブ盤」という設定にしてはどうだろうと考えた。が、さすがに1972年を名乗るほど古い音ではないし、1972年という年に特別な思い入れがあるわけでもないので却下。そこで思い付いたのが俺が生まれた1977年のライブという設定である。「1977年1月31日に行われたライブの模様を収めたアルバム」ということにすれば、「俺は俺が生まれた日にステージに立っていた」もしくは「生まれてすぐにステージに立っていた」という奇怪な、アングラ臭漂うコンセプトが浮かび上がってくる。

「いつ」が決まったら、次は「どこで」を設定せねばならんが、これはすぐに閃いた。大阪の寺田町にあったとされる伝説のライブハウス『乱気流』である。もちろん、架空。

1977年(昭和52年)1月31日、伝説のライブハウス「乱気流」で行われたライブの発掘音源。

こうなるとジャケットはこうなる。これがコンセプトと音とを結び付ける。

ちなみに、参考にしたのはコレ。

帯の色も、他のアルバムを赤で統一している中で『爆弾』だけモノクロにする。封入カードも、コンセプトに合わせて一から作り直す。

というわけで、『爆弾』がコンセプトアルバムとして生まれ変わる。想像力の有無で聴こえ方が違ってくる。

imagineじゃないが、「想像してごらん」だ。


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コンビニエンス一憩合格店主

和田怜士


褒められて伸びる人と褒めて伸ばす人へ

「豚もおだてりゃ木に登る」という諺を考えてみた。

まず言えるのは、この豚は褒められて伸びるタイプの鑑だということ。「おだてりゃ」とあるから、口から出まかせの嘘である可能性が高いのに、それを爆発的なポジティブシンキングでもって褒められたと捉えて、ただそれだけのことで不可能を可能にしてしまうんだから、大したものだと思う。まさに克己。それから、豚をおだてて木に登らせた人の話術も相当なものだと思う。道具や機材といったものを一切使わず、言葉の力だけを頼りに豚を木の上に移動させるという離れ業。並みの人間ではない。

この諺の根幹にあるのは皮肉であり、皮肉の矛先は豚と豚をおだてた人に向いている。だからこその「豚」「おだてりゃ」という言葉のチョイスである。思うに、この諺を考えた人は褒められて伸びるタイプの人ではなく怒られて伸びる古いタイプの人で、「怒られて伸びる。これが人としてあるべき姿だ」と信じて疑わないのに、褒められて伸びる人と褒めて伸ばす人が不可能を可能にしていく、きちんと結果を出していく様を見て嫉妬心が芽生え、その嫉妬心から生まれたのがこの諺だと推測する。

木に登った時点で、その豚が本当は豚ではなかったことは明白である。また、本当は豚ではなかったとはいえ、豚だと思い込んでいる者を木に登らせて、己が豚ではないということに気付かせるほどの力を持つ言葉がただの嘘であろうはずがない。というのが、俺が辿り着いた真相である。

こんな、まともに諺辞典にも載せてもらえないクソみたいなたとえに騙されちゃあいけない。あなたも俺も豚ではないし、これは、嘘ではない。


DJ気分で

というわけで、『McCARTNEYⅢ』から1曲お届けすると致しましょう。

アルバム中、最も「らしい」曲です。バイオリンベースのトーンが気持ち良い。そして、特筆すべきはドラム!ポールはマルチプレーヤーで、管楽器以外は何でもこなせますが(そのくせ譜面が読めない)、はっきり言って、ドラムが一番下手だと思います(笑)でも、下手だから駄目だというわけじゃない。ものすごく味のあるドラムを叩きます。良い意味で鈍臭くて、愛嬌があって、僕は大好きです。あのザ・フーのキースムーンが車でラジオを聴いていた時に、ポールの曲が流れてきて、「このポールのバックで叩いてる奴は誰だ!素晴らしいドラマーじゃないか!」と唸って、同乗していた奴に訊いたら「ポールです」という答えが返ってきたというエピソードは広く知られています。

では、アルバムの全英チャート初登場1位(31年振り!)と、全米ビルボードチャート2位(ストリーミング配信のポイント差で1位を逃したが、アルバムセールスは1位!)を記念してお送り致しましょう。ポール・マッカートニーで『FIND MY WAY』!!


どうだ!恐れ入ったかあ!!

降参。恐れ入った。やはりあなたは凄い。

『McCARTNEYⅢ』何度聴いても飽きない。毎回初めて聴くような感覚があって、聴けば聴くほど惹きつけられていく。スルメアルバムの金字塔であり、はっきり言って、ポールのソロキャリアに於ける最高傑作だと思う。

数日前に「ファンがポールに求める「あの」メロディーはない」みたいなことを書いたが撤回。そういうタイプの曲もあるにはあるのだが、そういうのには皆、不思議な寸止め感が効かせてあって、アルバムの中でその曲だけがいわゆるシングル曲のような形で浮いてくるというようなことがない。そういうのはあくまでアルバムを構成する一要素として配置されていて、アルバム全体で、メロディーを聴かせるのではなく感じさせる作品となっている。また、曲の魅力と音の魅力、どちらかがもう一方を引っ張っているというのではなく、バランス的に完璧に拮抗していて、それと先程書いた寸止め感が絶妙に絡み合って、この作品の強烈な中毒性を生み出しているように思う。個人的には、ここまで気持ち良い薬物的作品はレディオヘッドの『KID A』以来で、あちらもフラフラになるまで聴き込んだが、こちらもフラフラになるまで聴き込むことになるだろうと思う。っていうかもう既に結構脚に来ている。

天才メロディーメーカーだからこそ生み出せた別次元のメロディー。これを聴きながら、また一からメロディーとは何ぞや?考え直そうと思っている。

皆さんも是非、CDなりレコードなりを手に入れて、ジャケットを眺めながらじっくり聴き込んでみて欲しい。ハマって、抜け出せなくなって、人としておかしな事になっても一切責任は負わんが…。


この世はお前らの天下か

以前、松本人志が「もし世の中にテレビがなくてラジオしかなかったとしたら紳助さんの天下だったと思う」と言っていた。言わんとしてること、ものすごくよくわかる。ラジオしかなかったら紳助の天下で、さんまは大して売れなかっただろうと思う。

もし世の中に会話がなくて筆談か歌談(メロディーに乗せて喋る)しかなかったとしたら、俺はこんなんじゃなくて、もっとイケてる男でいられただろうと思う。会話、これが俺の人生にとって大きなネックになっている。

ライブイベントに出て、「他の演者に負けたくない。勝つのは俺だ」みたいなことを言うと誰かが決まって「音楽は勝ち負けじゃないだろう」みたいなことを言ってくるが、俺に言わせれば、日常会話についてはお前らみんな勝ち負けありきで喋ってるじゃねえか!となる。どいつもこいつも感情的に言葉をたたみ掛けてくる。俺が喋っているところへ言葉を被せてくる。ズンズンズンズン押してくる。子供の頃からそう思っていた。そんな奴らに「音楽は勝ち負けじゃないだろう」なんて言われる筋合いはない。だってそうだろう。お前らは喋る。俺は歌う。形が違うだけで目的は同じなんだから。お前らが音楽は勝ち負けじゃないと思っているように、俺は会話は勝ち負けじゃないと思っている。お互い様じゃないか。

会話が勝ち負けありきで、音楽に勝ち負けがないとしたら、俺には負けることしか残らない。

不公平だ!