読書の覚醒

人生には、怨みに怨み、憎しみに憎しんだものが、ある日突然、何かの拍子に、将棋の駒のようにくるりと裏返って、愛着、愛情の塊と化す、ということがあるらしい。

元来私は、何が嫌いって、言葉が嫌いで、従って、本など殆どと言って良いほど読まなかったし、ましてや、「文豪」などと呼ばれている人たちに対する気持ちたるや、嫌悪そのものだったのであるが、今や、文豪及び作家と呼ばれる人たちに対する私の気持ちは、「羨望」の一言である。実にカッコいい。

ここ数ヶ月間、私は何かにとり憑かれたように、本ばかり読んできた。活字に対して飢餓感みたいなものがあって、読んだ尻から腹が減って、毎日欠かさず、雨の日も晴れの日も、古本屋に通い詰めて、洋の東西を問わず、あらゆるものを読んだ。

中でも夢中になったのは、大宰治と、芥川龍之介で、この二人の作品に関しては、ほぼ読破したし、他にも日本の作家では、坂口安吾と、織田作之助を筆頭に、二葉亭四迷、谷崎潤一郎、井伏鱒二、夏目漱石、山本有三(『真実一路』は実際に、泣いてしまった。)などが気に入って、面白くて面白くて夢中になって読んだ。最近の人なら、町田康は勿論のこと、綿吹真理子と、川上未映子がいい線いってると思って、でも、惜しい!と思うところもあって、次作をとても楽しみにしている。

海外のものでは、やはり、私は、サリンジャーが大好きで、昔に読んだ『ナインストーリーズ』をもう一度読んで、やはり感動したし、O・ヘンリーの短編の中にも、『警官と讃美歌』など、そんなに有名ではない話の中に、面白いのが多々あったし、ドストエフスキーの『地下室の手記』や、カポーティの『ティファニーで朝食を』(原作と映画とは全然違う。)や、ジッドの『未完の告白』なんかは、いちいち感慨深くて、気に入った言葉があれば紙切れに書き移して、部屋の壁の、大宰治のポスターの横に貼るなどしながら、時間を忘れて読んだ。

私は、自分が、こんなに本の好きな人間だったとは思いもしなかった。自分で思う自分像って、本当は間違いだらけなのかも知れないねえ。

追記)村上春樹は死んでも読まん。あの清潔感が、鼻持ちならん。あんなものは、ブルジョア、もしくは、ブルジョアに憧れておる貧乏人が、フローリング敷きのマンションの一室で、白ワインでもたしなみながら読めばよろしい。要するに、無味無臭、何の足しにもならん、面白くも何ともない。絶対、読まん。


コメントへの返信〜故郷の忘れ者様宛

反応速っ!
ありがとう。とりあえず、戻って参りました。
今まで以上に、自分に忠実に生きれば、たったそれだけのことで、今まで以上に、他にはない文章、思想の形が、このブログ上にズラリと並ぶことになるかと思います。

今後ともご愛読、並びに、コメント書き込み方、よろしくお願いいたします!


新田茘枝登場

新田茘枝(にった・れいし)…私のペンネームである。

今後、私は音楽を演る時も、小説を書く時も、絵を描く時も、この、「新田茘枝」を名乗ることにしました。
「茘枝」とは、俗に言う「ライチ」のことで、ここ数ヶ月間、自分の胸中に、ソフトボール大のライチが、張り裂けんばかりにパンパンに膨れあがってるような感覚を味わってきたということと、新たなフィールド(新田)で、ゼロから始める(零始)という意味合いを込めて、「新田茘枝」を名乗ることにしました。
実は既に、この新田茘枝名義でいくつか作品を完成させています。絵を6枚と、『リスパダール』というタイトルの小説(短編集)を、作った。
『リスパダール』は、『イッケイノウタ』上に載せた短編小説5作品を大幅に改良したもので、各出版社に送り、感想文などももらっていて、今は今で、私小説的な、結構長くなるであろう小説を書いています。

表現の軸を、音楽から文学に移したというのが、ここ最近の私の最大の変化だと思う。と、言っても、決して、音楽を止めたというわけじゃなくて、軸を移したというだけの話。

私は、極めて個人的な信念として、良い絵を描きたいのなら、音楽も文学も平行してやる神経がなきゃ駄目だと思ってるし、また、良い音楽を演りたいのなら、文学も絵画も平行してやる神経がなきゃ駄目だと思ってるし、となると当然、良い文学を著したいのなら、音楽も絵画も平行してやらなきゃ駄目だと思っています。
よく、絵画は「光と影」と言い、音楽は「動と静」と言い、文学は「虚と実」だと、それぞれ区切って言うけれども、でも、本当は、これは皆、全てに共通して重要な要素で、要するにみんな基本的には同じことなんだと思うから、全ての目線を平行して持つことが大切だと思うのです。

ま、なんて言うか、その、私、今や、バツイチです。で、「次」を考えた時、もう本当に、芸術の鬼、悪魔、馬鹿野郎、人でなしになってやろうと思ったのです。

「人生にはたまにフィーバーってことがある。その時は、そんな自分にちゃんと気付かないといけない。でも、いつまで経ってもフィーバーの出ない時は...その時は、潔く台を変えることね。」
「あきらめないで」でお馴染みの、真矢みきの言葉が、私を大いに揺るがしました。

新田茘枝の本分は文学です。


アナログアナーキー・イン・ザ・商店街

何事も、2歩目は即踏み出すというのが、私のモットーであるから、早速、2本目を記す。

最近、私は生活の中のちょっとしたことに変化を、個人的な美学を、添えて、加えて楽しんでいます。
テーマは「アナログ」です。アナログ感を吟味し、突き詰めることで、俗世間からの浮遊感を噛みしめておるわけです。

今回、語ろうと思うのは、『煙草』に就いてであります。これは、常時、片時も放さず持っている物だけに、これに付随する何かをちょっと変えるだけで、生活の色彩的なものが微妙に、しかし確実に、変わるのです。そこで、私はまず、銘柄を完璧に『ゴールデンバット』に変更しました。ゴールデンバットは大昔からある煙草で、芥川龍之介や、太宰治の小説に「バット」という洒落た略名で登場して、当時の文豪の心持を少なからず味わえるし、パッケージが矢鱈とカッコいいにも関わらず、このご時世に200円は極めて安価で、なおかつ美味いんだから、文句ナシにオススメの逸品である。次に、私が煙草に関してこだわっているのは、「火」である。バットに火をつけるのに、100円ライターは、無い。ダサい。やはり、バットには、明治〜大正テイスト溢れる色調で、桃や、象や、鳥の図柄が描かれていて、その上下左右に、角張った字体で、「品質特撰」とか、「登録商標」とか、「兼松日産農林株式会社」とか書いてある箱に入ったマッチがよく似合う。
マッチはポイ捨てしても、100%土に還るから、罪悪感が無くて良い。バット自体も、両切りの煙草で、フィルターが付いていない分、100%土に還るから、何の躊躇もなくポイ捨てが出来て良い。

随分アナーキーなことを言うようだが、私は煙草のポイ捨てが大好きな、所謂、「ポイ捨て愛好家」であって、景品丸出しの、ビニール製の、貧乏臭い携帯灰皿などを持った奴に注意されると、そいつの眼球に根性焼きを喰らわせたくなる。

目玉焼き。

煙草やマッチのポイ捨ては、文章に於ける、「、」や「。」に似て、生活に心地好いリズム感、流れを生み出してくれるから、精神衛生上、欠かせない。

ところで、アナログなものは全て、どこか土の匂いがする。デジタルなものには無い、独特の、人間臭さがある。だからポイ捨てができる。従って、人間も、ポイ捨て可能だと言うことができる。人間も100%、土に還るからだ。でも、人間の場合は、土に還るまでの過程が恐ろしく長く、また、視覚的にも極めてグロテスクな行程を辿るので、ポイ捨てするには余程の気合いを要するが、「それ、気合いの問題か?」と問われれば、返す言葉に窮し、閉口せざるを得ないので、どうせ閉口するのなら、バットでも口にくわえておれば少しは、格好もつくというものだが、そこへ、実際に、無闇に気合いの張った、筋肉隆々、チャックウィルソンみたいな眼をした奴が現れて、バットをくわえた私を軽々と抱きかかえて、ドーン!などと叫びながらポイ捨てされた日にゃかなわん。というのが人情というもので、人情は人間臭さの極みで、従ってアナログで、ポイ捨てしても100%土に還ること請け合いなのだが、そうやって、人情がいともたやすくポイ捨てされているにも関わらず、誰も何も言わんから、全国津々浦々、昔ながらの商店街が姿を消していくので、私は、商店街では、煙
草、及びマッチのポイ捨ては絶対にせん!と、心に強く誓って、生きてきたのであります。

商店街に、コンビニは、要らんね。要らんけど、コンビニは、あれは、どう見てもデジタルやから、ポイ捨てできひんから、厄介やね。


復帰宣言(2011.3.13)

まだ自分の携帯を手に入れたわけではないので、当分の間は、ごくごく単発的な書き込みになるだろうとは思われますがしかし、有難い管理人の有難い献身的なご助力の下、ここに、わたくし和田一憩、約5カ月振りとなる、ブログへの復帰を宣言致します。

『イッケイノウタ』を消さずに残して、別に、新しく立ち上げてみてはどうか?というアイデアは、管理人の提案によるもので、新タイトル、『一憩合格』は、そう、俺が考えたものです。言わずもがな、『人間失格』に掛かっておりまして、「社会的に終わってる。男として終わってる。人間失格。そんなことは百も承知。でも、一憩として合格な視点をもって、一憩として合格な姿勢でもって、生きてやろうではないか!それで良いではないか!」といった、やや自嘲的且つ大いに自己鼓舞的なタイトルです。「人間」と、「一憩」が綺麗に韻を踏んでるし、もうこれしかなかろう、と。

タイトルは変わっても、「嘘はつかない。洗いざらい晒け出していく。」という基本理念に変わりはございません。ただ、『イッケイノウタ』収録の1058本と比べて、感傷的ではない、もっと攻撃的なものになれば良いなと思っています。

たった一度きりの人生。常に他人の目を気にしつつ、喉元からキュウキュウと情けない、虫の息のような奇声を発しつつ窮屈に喘ぎ喘ぎ生きようが、何よりも自分の中の尺度を重んじて、傍若無人呼ばわりされて、村八分を言い渡された挙げ句、日蔭を、瞳をギンギラギンにさりげなく輝かせながら生きようが、死なばもろとも、どいつもこいつも、例外なく、いつか必ず死ぬんだから、やるっきゃ騎士。

なんだかよくわからないけど、一人でも多くの読者がここへ戻ってきてくれることを祈っております。

それでは、始めさせていただきます!


テスト3〜理想のタイプ〜

優しい人が良いです。

え?面白くない?理想のタイプに面白いもクソもありますか?私は、優しい人が、良いのです。え?それでは記事にならない?困りましたね。じゃあ、う〜ん、そうですねぇ、しょうがないですねぇ、え〜っと、あ、そうそう、鈍くさい人が良いです。鈍くさくて優しい人が良いです。

え?私ですか?私自身ですか?え?あなたは私に私自身の性質について真顔で語れと、こう、おっしゃるんですか?困りましたね。え〜っと、そうですね、私はぁ、私はぁ、私はぁ、鈍くさくてぇ〜、それからぁ〜、え〜、全っ然優しくないです。

あれ?え?わ、悪いですか?


テスト2〜光について/田中和将〜

少しはこの場所に慣れた
余計なものまで手に入れた
イメージの違いに気付かなかった

人の流れ眺めながら
時計をこの目で確かめるが
季節は変わり始めていた
いつのまにか

そうきっと
急ぎ疲れたんだ ほんの少し
情熱を
抱えたままで 立っていたのさ

何もかも全て受け止められるなら
誰を見ていられた?
涙に流れて使えなかった言葉を
空に浮かべていた いつも
心はただここにあった

仮定だらけの話題になれば
答えを出すのを諦めるが
溜息の向こうで誰かがいつも
手を振っていた

もう一度
君に会えても 本当は
もう二度と
届かない様な気がしてた

光に満たされてゆくこの世界の中
何をしていられた?
誰もが浮かれて理解りあったつもりなら
それだけでいられた いつか
忘れてゆく人になるさ

そうきっと
昨日に疲れたんだ ほんの少し
情熱を
抱えたままで待ってるのか

何もかも全て受け止められるなら
何を見ていられた?
誰もが浮かれて理解りあったつもりなら
それだけでいられた
いつも
光にさらされてゆくこの世界の中
君を見ていられた
涙が流れて聞こえなかったとしても
空に浮かべていこう
いつも

僕らはまだここにあるさ