この文章、本当に、特に何の意味もないんだけど、「水が腐る」って、詩的な現象だと思う。
だって、水が腐るんだよ。
私は、私が人を好きになること自体を、罪悪だと思っている。
恋愛にも、「向き不向き」があるとすれば、私は、どう考えても、「不向き」だと思う。人を、好きになった人を、不幸にするだけだと思う。
好きになってたまるか、ボケ!冗談じゃねえよ馬鹿野郎!って思う。
計画性のある人間に魅力を感じない。
計画性を最優先にする人間は、他人にも計画性を求めるから、付き合っていて非常に窮屈だ。
バントや敬遠を多用する野球はつまらない。
計画性の無い人間に魅力を感じる。
計画性が無いということは、ある意味、失敗を恐れないということだ。
失敗を恐れないし、地味で小さな拾い物になど見向きもしない。バント?敬遠?ふざけるな!ってなもんだ。
逆転サヨナラホームランを打てるのは、奇跡を起こせるのは、いつも、計画性のない人間だ!
数ヶ月前までの私のように、むやみやたらに人を許しまくるというのも、国が紙幣を乱発しておるようなもので、後々ロクなことにならないのは目に見えており、問題ではあるが、それよりも問題なのはやはり、全っ然人を許さないということである。
全っ然人を許さないというのは、これはもう本当に、残酷だとしか言いようがない。
許したくても許せない時や、相手のことを想えばこそ、許すべきではない時というのも、人間生きてれば確かにあって、それを間違いだとは微塵も思わないが、世の中には、許そうと思えば許せるのに許そうとしない人や、相手のことを想えばこそ、許さなくてはならない時に、頑なに許そうとしない人というのが結構いて、これは、こういう人間は、本当に「残虐非道」なのである。私の中のイメージで言うと、こういう人間は、精神的な「ド吝嗇(ケチ)」なのである。
人を許すことを知らない人間は、えてして、人に謝ることを知らない人間なのであるから、もう本当に、最初から近寄らないに越したことはないのである。
第三者にはわからない。
「第三者にはわからない」ということをよくわかっている第三者は、信用するに値する。
当事者が、どんなに言葉を尽くして語っても、本当のところは、第三者にはわからない。
その時、何を見たのか。その時、何を聞いたのか。その時、どんな空気に触れていたのか。その時、どんな匂いを嗅いでいたのか。その時、どんな印象を受けていたのか―ということの全てを、言葉に盛り込むことは不可能だからだ。
私だって、ある事柄について、第三者になったらきっと、何もわからないし、わかってあげられないと思う。
ただ、「第三者にはわからない」という前提に立って、ちゃんと話を聞いてあげる―ということしかできないと思う。
賢明なる読者各位、余は、「憎しみ」を放棄した。が、「怒り」を放棄したわけではない。
「憎しみ」とは言わば、ヘドロのようなもの。
「怒り」とは言わば、炎のようなもの。
余はただ、屁を泥状に凝固させたかのような穢らわしきヘドロを、放棄したまでのことである。
余は、痩せても枯れても、ブログ界に於いて言わずと知れた、伊丹最北端が全国に誇る至宝、『伊丹北摂毒舌大帝』である。いきなりセンチメンタルなフニャチン野郎になって、読者各位の期待を裏切るような真似は絶対に、死んでもせん。
余は…って、え?なんでいきなりそんな喋り方なん?って?そ、それは、あれだ、私が、何故か今、猛烈に曹操孟徳…三國志モードだからで、特にこれといった理由は…ない!そんなもの、あってたまるか馬鹿野郎!
磨りガラス越しに貴女を見た
無理矢理拵えた憎しみが
いとも容易く砕け散った
シルエットが
悲しかった
シルエットが
貴女だった
狂おしい程の恋だった
狂おしい程に楽しかった
さようなら
貴女は本当に優しかった
貴女は本当に
綺麗な人
貴女は今も
綺麗な人
人を憎しむというのは、本当に、嫌なことだ。本当はめちゃくちゃ嫌だ。めちゃくちゃ嫌だから、私には、本当に、心の底から、人を憎しむなんてことは、一生できないと思う。ただ単純に、性に合わない。かといって、もし、敵がこの文章を読んだなら、確実につけあがってくる、ナメてかかってくるのは目に見えてるんだから、私としては意地でも、出来うる限り、敵を憎しみ抜かないといけない。
「憎しむ」ということを無理にやるというのは、めちゃくちゃに疲れる。疲れるけど、でも、ナメられるよりはマシだ。
「憎しむ」ということを自然にできる人間が羨ましい。何かと楽だろうと思う。でも、一人格として、いかがなものか…とも思う。
《自分の事を言っておるのではないことを、まず、断っておく。》
本当に良い奴に限って、愛情に飢えている。
本当に良い奴に限って、精神を病みそうになっている。
本当に良い奴に限って、死にそうになっている。
とある駐車場に、「空アリ」の看板が掲げられていて、ある男が、「空」を「そら」と読んだ。
くる日もくる日も、男は駐車場にやって来て、空を見上げている。と、そこを偶然通り掛かった一人の女性が、その男を見て不思議に思い、声を掛ける。
「何をしておられるんですか?」
「いや、ここにはね、そらがあるんですよ。」
その翌日から、この女性も駐車場に来て、男と一緒に空を見上げるようになる。二人の間に、恋が芽生えるというような気配は微塵もなく、ただただ、二人並んで空を見上げている。
数日後、駐車場で空を見上げている人間の数が、相当な数に膨れあがっている。誰も何も喋らない。無言で空を見上げている。
或る日、最初に男に声をかけた女性が突然口を開いて男に耳打ちする。
「あの、最近、そらが少し狭くなったような気がしませんか?」
「え?あなたもそう思われますか?実は僕もそう思っていたんです。」
と、そこへ、手押し車を押した老婆が通り掛かって、駐車場の人々に問い掛ける。
「皆さん、そんな所で一体何をしておられるのかや?」
皆、一斉に老婆の方を向き、口を揃えて答える。
「ここにはそらがあるのです。ほら、そこの看板に書いてあるでしょう?」
老婆は看板を見るやいなやカラカラと笑ってこう言う。
「これかえ?これは「そら」じゃなくて、「あき」と読むんじゃよ。」
「…あき?そうか、そうでしたか。ここには秋があるんですなあ…。」
空を見上げていた俳人のような爺さんがうっとりとした表情を浮かべて呟くと、空から駐車場にいる人間の頭めがけて、人数分のタライが落ちてくる。
ガンッ!
ガンッ!
ガンッ!
そして暗転…。