日常的寂寥

優しさというのは感性の問題だと思う。投げ掛ける側にも受け取る側にも感性が要る。感性がないからあからさまになるし、感性がないからあからさまなものでないと優しさだと感じなくなる。日常的なさりげない優しさの積み重ねが単発的であからさまな優しさに食われる様は、優しい人が「いい人」に食われているようで見るに耐えない。

いじめの最たるものは無視だと言う。その通りだと思う。そして、裏を返せば、優しさの根幹は「あなたを見ている。あなたに興味がある。あなたのことを知りたい」という姿勢だと思う。ところが皆、見ているようで見ていない。お互いに全く興味がなくて、知りたいと思っていない。人を知るというのは「背負う」ということ。皆、背負うことを嫌がって、執拗に身軽でいようとしている。時折、テキトーにあからさまな優しさを見せておけば、背負うことなく人との繋がりを維持できると思っている。浅はかにも程がある。寂しい。心細い。

俺が次に書くべき曲は「あなたを見ている。あなたに興味がある。あなたのことを知りたい」だと思う。ある人には俺なりの想いを込めて。ある人には皮肉を込めて、痛烈な当て付けとして歌いたい。


花魁に衣を

いい女は金がかかる…というわけで、花魁さくらさんにオーバードライブの次に買い与えたのがコレ。

リバーブ。決して安くはない買い物だし、音全体を左右するエフェクターなので、「俺、こんなに勉強熱心な奴だったか?」というくらいエフェクターについて、リバーブについて勉強して、他のものと比較しながら選んだ一台なのだが、決め手はやはりルックスだった。

だって、リバーブって視覚的に表現するとこういうことでしょ?って言うか、花魁が着る衣だぜ?これくらい艶やかでなきゃ!


しずくドッペルゲンガー

嬉しいの?

苛立つの?

哀しいの?

楽しいの?

何か言ってくれ

卑怯じゃないか

黙り込むなんて


自分で言うのもなんだが、研ぎ澄まされた良い歌詩だ。その時々で異なった感情をもって歌える。この映像の時は哀しみを込めて歌ったけど、今歌ったら怒りを込めて歌うことになると思う。うんとギターを歪ませて。

人間の感情というのは、哀しみを通り越したら怒りに変わるし、怒りを通り越したら哀しみに変わる。この曲はどちらからでも入れて、どちらからでも抜けられる。

たまに自分の書いた歌詩に救われることがある。でも、そのたびに、俺以外の誰かが書いた曲で客観的に聴けたらもっと良かったのになあ…なんて、ちょっと残念に思ったりもする。

ま、実際に目の前にこんな曲を書いて歌う奴が現れたら俺、即座に音楽やめるけど(笑)


高嶺の花となるために

皆さんよくご存知の通り、俺はものの好き嫌いをはっきり言う。が、元々そういう人間だったのかといえばそうではない。自己矯正とも言える意識的な取り組みを経て、最近ようやく馴染んできたというか、習慣付いてきたのである。

好き嫌いをはっきり言うことにした目的は、好き嫌いのはっきり言える人間になりたかったからではない。好き嫌いをはっきり言えるということ自体にはさほど意味はないと思っている。目的は別にある。それは、YES/NOのはっきり言える人間になりたいということである。

YES/NOをはっきり言うことと、好き嫌いをはっきり言うことのどちらが難しいかといえば、言わずもがなYES/NOをはっきり言うことである。日本人の性か、本当に難しい。いきなりYES/NOのはっきり言える人間を目指すというのは、最初から補助輪のない自転車に乗るようなもので、大怪我をしかねない。まずは補助輪を付けて練習しなければ。で、その補助輪の付いた自転車に乗ることに当たるのが好き嫌いをはっきり言うことだと思っている。もちろん、リスクは伴なう。補助輪が付いていたってコケる時はコケる。が、鈍臭いことにドブにはまるとか、不運なことに車に轢かれるとかしない限り、大怪我は免れる。そうして、ちょいちょい擦り傷程度の負傷をしながら練習して、自分の中で補助輪に頼る気持ちが消失する日を待つ。

YES/NOがはっきり言えたら好き嫌いをはっきり言うなんてのは容易いことに違いないのだが、好き嫌いがはっきり言えたとてYES/NOがはっきり言えるとは限らない。しかしながら、好き嫌いすらはっきり言えない有り様ではいつまで経ってもYES/NOをはっきり言える人間にはなれないから、まずは好き嫌いくらいはっきり言える人間になって、そこから、不思議と以前ほど高嶺の花だとは感じなくなったYES/NOのはっきり言える自分に手を伸ばすべきである。

と、エラそうに言いながら、俺もまだまだ好き嫌いをはっきり言うので精一杯の段階。でも、何かしら見えてきたものがないわけではない。「攻撃は最大の防御なり」と言うが、好き嫌いをはっきり言うようにしてから、ただそれだけのことで、メンタル的に常にファイティング・ポーズをとれているような気がして、差し込むことはあっても差し込まれることがなくなった。少なくとも、YES/NOをはっきり言える自分への仮免許くらいは取得できたんじゃないかと思っている。


淘汰評定報告

YouTube。チャンネル登録者数13に対して映像作品の数が13と枠を使い切って以降、再生回数の変動を中心に各種リアクションを観察していた。そして今回、新たな相棒、さくらを迎えたタイミングで、残すものは残し、削除するものは削除することにした。いずれ登場するさくらの為に枠を設けておかねばならないからである。

2つの映像を削除した。一つは「SURFBLUE」。最大の理由は、俺が所々音を外して歌ってしまっているから。特に、歌い出しの一音を微妙に外してしまっているのが致命的だった。第二の理由は俺が靴を履いていないこと。自宅での撮影とはいえ西洋式に靴を履くべきだった。靴底を掃除するなどして。もう一つの映像は「果物をてんこ盛った巨大なケーキ」。これは編集を重ねたことで画像が随分と荒くなってしまっていたし、いかに編集を重ねても、スタジオで一人でやっている孤独感のようなもの(実際には孤独感なんてこれっぽっちも感じてないけど)が拭い切れなかった。映像として、どこか寂しかった。それから、再生回数。後から来た「the answer song」にあっさり抜かれてしまったというのも削除した理由の一つである。

当然ながら、いずれも曲の問題ではないことは分かっている。いずれもすごく良い曲で誇りに思っている。ただ、映像として視聴した時に、他の11曲に勝てなかったということである。

以前にも書いたが、映像の配信というのは、自分の存在を知ってもらう上で非常に効果的な手段ではあるが、諸刃の剣でもあるから、今後も絶えず厳しく淘汰を促していくつもりである。


怜士、(おそらく初めて)機材を語る

バンド時代は、曲を作る時はアコースティック・ギターを弾いて、ライブの時はエレクトリック・ギターを弾いていた。エレクトリック・ギターを弾いてはいたが、エフェクターに興味がなかった(はっきり言ってギターにすら大して興味がなかった)。バンド時代に使っていたエフェクターとなると、コレしか覚えていない。

ルックスで選んだ。ルックスが気に入っていたから長く使った。

最近、遅ればせながらエフェクターへの興味が湧いてきた。さくらに辿り着くまでに色々と調べ、研究した結果、エフェクターもやはり「ルックス=音」らしく、様々なルックスのものがあって、ということはつまり様々な音があるということで、俄然興味が湧いてきた。

エレクトリック・ギターを弾く以上、歪み系のエフェクターは必要不可欠。というわけで、今回手に入れたのがコレ。

オーバードライブ。一目惚れ。したがって、音も理想的。世の中には「エフェクターと言えばBOSS」みたいな風潮があるが、俺は昔からBOSSのエフェクターが嫌い。ルックスが気に食わないので、音も気に食わない。上の「819」を買う時に、念の為にBOSSのオーバードライブも弾いてみたのだが、店員が出してきたものを見て、弾く前にウゲッと思った。

ただでさえカッコ悪いのに「技」って書いてある。0点。したがって、音も0点。BOSSのエフェクターは何を使っても同じ音がする。ディストーションとコーラスとか、種類が全然違っても根本的に同じ音がする。たまに、金属製のフォークやスプーンが苦手だと言う人がいる。歯に当たった時にゾッとするらしいのだが、それに似たものをBOSSの音を耳にした時に感じる。それがまた、ギターの個性を殺して出しゃばってくるから話にならない。なので、今後もBOSSのエフェクターは買わない。

エフェクター。これからいくつか買い揃えようと思っている。もちろん、ルックス最重視で。でも、これはバンド時代から変わらないけど、必要最低限のものが何台かあればいいと思っている。足下に7台も8台も並べるのはカッコ悪い。

無駄にエフェクターを並べて輪郭のぼやけたなんだかよくわからない音を出してドヤ顔を浮かべるのはBOSS愛好家に任せる。


紗雨と桜怜

この人がしょっちゅう雨を降らせるのは「ギブリン」というあからさまにテキトーな名前に不満を募らせているからではないか?と考えた。ギブソンのバッタもんみたいだし、ゴブリンみたいだし…。そこで、シスターマロンとともに姓名判断等を参考にしつつ、新たな名前を考えた。

和田紗雨

本来の読み方は「しゃう」であるが、我々身近な者は親しみを込めて「さう」と呼ぶ。無理矢理に晴女的な名前にはせず、大きく開き直った。同時に、SAKURAの本名も考えた。

和田桜怜

おうれい。花魁としての呼び名が「さくら」で、アメリカ生まれではあるが日本人であることにして、アルファベット表記をやめることにした。

初対面。

紗雨と桜怜。三国志に例えれば、俺にとっての関羽と張飛であり、孔明と龐統である。

誰にも負ける気がしない。

覇道を行こう。


命名の儀

俺は必ず自分の楽器に名前を付ける。俄然、愛着が湧くからである。当然、今回手に入れたエレクトリック・ギターにも名前を付けた。正式な名称は「ギブソンES-335」で、皆、「ES-335」と呼ぶが、それではただの楽器だ。魂が宿っていない。だから、人間と同じように名前を付けてやらねばならない。

楽器に名前を付ける時、考え過ぎは禁物だ。変にこねくり回すとそれはそれで愛着が湧きづらくなる。シンプル・イズ・ベスト・イズ・ベストだ。というわけで、今回、「彼女」にどんな名前を付けたのか。発表しよう。

彼女は桜の開花とともにやって来た。そして、俺の中に「頼むから雨女だけにはならないでくれ」という祈りがあって、桜が咲くと人は皆、雨が降らないことを願う。なので、「さくら」と命名することにしたのだが、彼女はアメリカ生まれなので、アルファベット表記で「SAKURA」とした。

魔女SAKURA。

ここで一つ気付いたことがある。「魔女」と「SAKURA」が馴染まず分離してしまっている。これは何を意味するのか。そう、SAKURAは魔女ではないということである。悪魔的な魅力を備えており、魔術的な力を秘めてはいるが魔女ではない。では一体何者なのか。少し考えて分かった。彼女は、SAKURAは、花魁(おいらん)だったのである。その証拠に…

花魁SAKURA

「花魁」と「SAKURA」が見事に馴染んで融合している。そういえば、白いペグが簪(かんざし)に見える。

そうか、お前は花魁だったのか!ということは、俺は花魁を連れて歩く男というわけだ。これほど男冥利に尽きることが他にあろうか。そうか!そうか!そうだったのか!あはははは!

というわけで、花魁SAKURA。以後、お見知り置きを。


愛憎の反ブルース旗手

楽器屋でギターの試奏を願い出ると、スタッフがシールドを繋いだりチューニングをしたり、色々と準備してくれる。で、チューニングを済ませると、客にギターを手渡す前に必ずと言って良いほどワンフレーズ弾く。もちろん、チューニングが合っているかどうかを確認する為なのだが、先日「ん?」と思ったのは、そのワンフレーズの内容がどいつもこいつもブルースだということである。

「僕、腕に覚えがあるんです」と言っている。下手すりゃ、「僕、おそらくあなたより上手いです」と言っている。ように感じてチクッとイラッとする。

数秒で腕に覚えがあるように見せたい時、ブルースは便利である。ほんのワンフレーズで「あれ?この人ひょっとして上手い?」と思わせることができる。でも、これをやる奴が異常に多いというのはどういうことかというと、単純に簡単だからである。彼らが弾いているのはブルースではなく、見様見真似の「ブルースな感じ」であって、そんなもん、俺でも弾ける。

以前にも書いたが、ライブバーやなんかでお店に気に入られたかったら一番の近道はブルースマンを名乗ることである。名乗るだけで良い…いや、違うな。ハンチング帽が要る。ハンチング帽をかぶって「ブルースやってます」これだ。これで良い。本当にブルースをやる必要はない。音楽みたいなもんは二の次だ。四畳半フォーク崩れで構わない。お客さんやお店の人が知っているのは「ブルースな感じ」であってブルースではないからいくらでも誤魔化しが利く。現実には「誤魔化しが利く」ったって、誤魔化す側に誤魔化すつもりがなくて誤魔化される側に誤魔化されている自覚がないという白痴染みた…いや、失礼。罪のない平和な世界なのであるが、残念ながら、それこそが俺の攻撃対象。破壊したいもの。なぜなら、本当に音楽が好きで、真面目に音楽やってる者にとっては目障りでしかないし、正当な評価に飢えている者にとっては「ちゃんちゃら可笑しい」と言って容易く受け流せる問題ではないからである。

知ってる。ブルースって本当はめちゃくちゃ偉大な音楽だ。ロックンロールが負けるとすれば唯一ブルースだけだとすら思う。本物を観れば、聴けば、感じれば分かる。アホほど素晴らしい音楽だ。でも、俺はあえて頑なにブルース嫌いの旗印を掲げていこうと思う。厳密に言えば「ハンチング帽をかぶって四畳半フォーク崩れを歌う自称ブルースマンが嫌い」なのだが、いちいちそんな回りくどい言い方をしなくても、真意を、分かる人には分かってもらえるだろうと思う。

哀しい哉、ブルースが嫌いだ。