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思い出のハイライト

「死んだ人間なんてどうでもいい」と口癖のように言っていた親父の涙を一度だけ見たことがあって、それは親父の妹さんが亡くなった時のことだった。

親父は墓参りになど行くような人ではなかったが、今にして思えば不思議なことに、まだ中1かそこらだった私を連れて、妹さんの墓参りに行ったことがあった。何故か周りには誰も居なかった。本当に親父と私の二人だけで、墓の前に立っていた。

親父はポケットからハイライトの箱を取り出すと、一本抜き出して火をつけて、「こんなもんは気持ちの問題や」と言って、線香を差す器にそれを立てた。そして、手を合わせることをせず、ただ墓の前に立って、墓の方を見ながら私に「死んだら終わり」と呟いた。

私は親父のこういう所が好きだった。死ぬほどカッコいいと思った。もし、親父の考え方ややり方や生き方が社会人として、大人として失格だというのなら、私も失格街道を突っ走ってやると思った。が、「大人」呼ばわりされる歳になって、蓋を開けてみると、私は親父に比べてあまりに臆病な人間だった。

それはそうと、親父に比べれば、その辺の社会人も大人もあまりにくだらない。みんな同じ顔をして、同じことを言ったりしたりしているーということくらい、中1の私の目にも明らかなことだった。


二つ前の記事の中で私が言った「ささやかな終わり」というのは、つまり、文章で言うところの「、」や「。」や改行の事。
人生にも、仕事にも、思考回路にも、「、」や「。」や改行が必要だと言いたかった。

「、」も「。」も改行もない文章なんて、読む前に、見ただけでウンザリする。そんな、「、」も「。」も改行もない文章が頭の中を埋め尽くしたらもう、まともな言葉なんて出てこない。ただ、だらだらと涙が出てくるだけだ。

そう言えば、私が太宰治の文章を好きになったのは、内容はもちろんだが、それまで見たことのない「、」の小刻みな使い方と、そこにある切実さというか、優しさが嬉しかったからだった。


隣の天才へ

アインシュタインの言葉に「私が数学に愛されたのは、私が数学を愛したからだ」というのがあるが、事実、天才というものは「好きこそものの上手なれ」なる言葉の下に生まれるものなんだと思う。

「天才は誰よりも努力するから天才だ」みたいなことを言う人があるが、それは天才でない人独特の言い回しであって、天才にとって努力は努力ではないし、そもそも、「努力」なる言葉自体が、天才でない人が己の自尊心が傷付くのを回避すべく生み出した言葉だと思う。そんな言葉を、考え方を、天才に当てはめちゃいけない。天才は努力を努力だと思っていないからこそ天才。「好きだからやってます」で終わり。だから天才。

天才の隣で、天才と同じものを眺めていると、いずれ罪悪感や劣等感でいっぱいになるー可能性が高い。

「自分はこの人ほど、これを好きではない」ということに気付いてしまった時点から、圧倒的な能力の差が時間の経過とともに縮まるどころかさらに拡がっていくことが予想されて、どうにもならなくなる。そうして、「好きではないかもしれないが決して嫌いではない」と言えていたものが、「嫌いではない」とさえ言えなくなってくる。

こういう時、唯一打てる手として「開き直り」というのがあるが、能力の差について開き直ることはできても、好き/嫌いについてはなかなか開き直れるものではない。
天才を前にしてもなお、「好きな気持ちだけは負けない」というハートがあれば、現時点での圧倒的な能力の差はさほど問題ではない。時間さえかければ差を詰めていける可能性を常に感じることができるから、「今は負けてて当然だ」と開き直れる。でも、好き/嫌いについては、「好きではない」ということについては、「嫌いだ」ということに気付いてしまったことについては、開き直れるものではない。そして、「好きではない」「嫌いだ」ということは、それがそのまま能力に直結してくるから、能力についても開き直ることができなくなる。

「好きなことを仕事にしている人なんて滅多にいない」ってな言葉をよく耳にするが、そこを安易に諦めてしまうと、開き直ってしまうと、たった一度の人生であるにも関わらず、死ぬまでずっと「隣の天才」に負けっぱなしの、二流・三流でいないといけなくなる。

「人は、自分の世界さえ見つけることができれば一人残らず天才になれる」というのが私の持論だが、実際には天才は、隣にも、ほんの一握りしかいないから、天才はいつも孤高で、孤独で、寂しそうで、周りに味方が居ようが居まいが、孤軍奮闘しているようにしか見えなかったりする。