悪玉志願

昔、ある友人が「なんでええ人が(病気や災害で)死ななアカンねやろ。神様なんておらんで」と言ったので、「善人も悪人も殺すから神様なんとちゃうか?」と言ったら激しい口論になった。

悪人だけが殺されて、誅殺されて、善人だけが生き残って、世の中が善人だらけになったら、善人が何をもって善人なのかがわからなくなってしまう。右も左も善人。そんなアンバランスはない。だいたい、神様が全てを作ったのなら悪人を作ったのも神様のはずで、何かしら意味があるから作ったはずで、善人だけを生かして悪人を一掃するというのなら始めから悪人なんて作らなければよろしい。という話なのではなかろうか…ということを、毎年、健康診断を受けるたびに思う。

健康診断を受けるたびに善玉コレステロールが多過ぎるという結果が出る。善玉なんだから良いんじゃないのか?多ければ多いほど良いんじゃないのか?と思うのだが、医者はバランスの問題だと言う。善玉には善玉の役割があって、悪玉には悪玉の役割がある。バランスの問題なんだと言う。毎年、同じ問答があって、毎年、「そう言われてみるとそんな気もする」とすんなり腑に落ちる。

「音楽やる人間として」という視点で考えてみたところ、俺は聴き手、お客さんに対しては徹底的に善玉でありたいが、演者、同業者に対しては悪玉でいたいと考えているらしいことが判明した。お客さんに対しては常に良い音楽を提供していきたいし、閃く限りのアイデアでもって楽しんでもらいたいと考えているが、同業者に対してはどこかで嫌われていたい、嫌われてナンボだと考えている。

巷のアーティスト。良い人が多過ぎる。良い人だと思われたいと思っている人が多過ぎる。お客さんに好かれたい。同業者にも好かれたい。誰にも嫌われたくない。そう考えている人が多過ぎる。善玉だらけで悪玉がいない。これが人体なら完全に病気。演者に演者らしい灰汁(あく)のようなものがない。お客さんと演者の見分けがつかない。お客さんはお客さんを観に来たわけではない。面白くない。閑古鳥が鳴く。

と、そこへ持ってきて、俺がやってる音楽が何かと言えば、数あるジャンルの中で悪玉をやらせたら右に出る者のいないロックなわけだ。お客さんと音楽そのものに嫌われさえしなければ、あとはもう誰にどう思われようが関係ない。嫌われたら、かえって箔がつくというもの。

ステージの上に鳩がいる。掃いて捨てるほどいて、辺り構わず有害な糞を撒き散らすので「平和の象徴」が聞いて呆れる。そこに一羽のカラスがやってきて孤軍奮闘。鳩を蹴散らしたら、それでもなお、カラスは悪玉扱いされるのだろうか。

意外に、スタンディングオベーションをもって歓迎されるのではないだろうか?


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