気付けば、かつての俺をよく知っている、かつての俺を象徴するかのような親友たちが、僅か数人を残して、俺の周りからいなくなっていた。ざっと思い付くだけでも5人はいなくなった。
理由はそれぞれにあって、共通する一つの理由からそうなったわけではない。ただ、俺の周りから一人、また一人と親友たちが去り始めたのが、俺の親父が死ぬ前後だったということだけは間違いない。明らかに親父の死がポイントになっている。
親父が死んだ時、悲しかった。驚くほど涙が出なかったのは、悲し過ぎたからなのかもしれない。でも、心のどこかで、親父の死を喜んでしまっている自分がいるのを感じてもいた。
親父から多大過ぎるくらい多大な影響を受けてきた。自分の人生であるにも関わらず、「親父だったらどうするだろう」みたいなことばかり考えて生きてきた。その親父が死んでいなくなることで、ようやく自分の人生が始まるような気がしたし、新しい自分が始まるような気がして、新しい自分と「親父のコピー」でしかなかった自分とを全くの別物として分けて考えたくなった時、そのタイミングで「和田怜士」が生まれた。
去っていった親友たちはあくまで、かつての俺の親友たちであったから、猛烈な違和感を感じただろうと思う。彼らの知る俺は、はっきりとした物言いのできる人間ではなかったし、決断に力強さがなくて行動が曖昧だった。「俺は俺であって俺ではない」という意識が常にあって、自信がなかったからだ。それが突然、自信満々に「俺はこう思う」「俺はこうする」「邪魔するな、うるさい、黙れ」と言い出したんだから、違和感を感じて、拒絶して、当然だと思う。
人は思想、言葉、姿勢、行動…全てに於いて曖昧な時、つまり、人として曖昧な時、他者と多くの繋がりを持てるらしい。軸を持つと人を選ぶようになるし、選ばれるようにもなるから、「広く浅く」ができなくなる。
かくして、今、俺は幸せだ。かつてなく幸せだ。だから、彼らが去ったからといって、過去の自分に戻りたいなんてことは微塵も思わない。俺が過去の俺に戻らない限り、彼らが戻ってくることはないんだろうけど、蝶は蝶。二度とサナギには戻れないんだから、彼らが戻ってくることもないだろう。
何かを得ようと思えば、何かを失うことになる。親父や親友たちを失って、和田怜士と新たな人生を得た。過去は過去。割り切って潔く行こう。後生大事に抜け殻を抱えて飛ぶ蝶なんていないんだから。