人と人との繋がりをネットが仲介するようになってからというもの、人間関係というものが随分と軽薄な、無責任なものになってしまったな…とつくづく思う。これまでにも何度か書いたが、例えばFacebook。真面目にやってると人間不信になる。
記事を書いてアップする。「友達」がそれを読んでリアクションする。「友達」も記事を書いてアップする。でも、その記事にリアクションしない…という馬鹿が掃いて捨てるほどいる。別に毎回リアクションする必要はない。たまに、記事の内容に応じてすれば良い。でも、その「たまに」がない。これはキャッチボールに例えると、ボールを投げて、受けた相手が投げ返してきたボールを受けないということ。それを繰り返すということ。そんなことをしていて罪悪感を感じないのか?平気でいられるのか?唖然とする。ネットの扱いには慣れていても、キャッチボールのやり方は知らんのか?話にならん。義務教育からやり直せ。
先日は先日で、ある人にお礼のメールを入れた。「先日はありがとうございました」と。そして、「これからもよろしくお願いします」と。本当にこれだけ。余計なことは一切書いていない。社交辞令といえば社交辞令かもしれないけど、俺も(年齢だけは)大人。気持ちを込めて書いた。が、驚くべきことに、このメールに対する返事がない。「こちらこそよろしく」で十分なのに、それすらない。以前からなんとなく、俺のこと苦手なんだろうな、嫌いなんだろうな…とは思ってたけど、失礼にも程がある。無礼にも程がある。立場も年齢も関係ない。人としてどうなんだ。
キャッチボールを知らん輩がいることに唖然としてたら、今度は挨拶を知らん奴が現れた。仕方ない。教えてやるからよく聞け。
「おはよう」と言われたら「おはよう」と返すんだよ。
「こんにちは」と言われたら「こんにちは」と返してね。
「こんばんは」と言われたら「こんばんは」だよ。
喜怒哀楽。怒りというのは突き抜けると哀しみに変わる。激烈に哀しい…。
私はコミュニケーションの病気になりました。
ずいぶん前のことです。
現在は回復したというより、「あきらめと怠惰」の中で
もはや本当の自分の顔すらわからなくなりました。
つまり、怜士さんの言うようにあいさつをあいさつで
返さない輩に「キレて」いた自分を消し去る闇です。
近所に「絆」などというたこ焼き屋があるのですが、
先ほど、外から中をのぞいたら、皆笑っていました。
しかし、病気のわたしはその笑顔すら、信じられない。
どうすれば、あのように笑えるのだろうと。
別に現実すべてを闇などと思うわけではないですが
グレーのようなあいまいな闇のような気がします。
「ほんものの音楽」すら排他される闇でもあります。
しかし、完全にあきらめるとそこで終わるのですよね、
あきらめすに、怒り続けていきましょう。
私はまだ哀しみでしかないですが、本当は怒りたいのです。
長文失礼しました。
コメントありがとう。わかります。素晴らしい文章だと思います。
突然ですが、予防接種ってありますよね?あれって、あらかじめ菌(ワクチン)を体内に接種しておくことで抵抗力を高めておくというものですよね。人は人間不信という病についても同じ理屈で対策を講じているように思います。つまり、人間不信に陥らないようにあらかじめ相当量の人間不信菌を接種してる。人と関わる時に無責任なことをしてもされても痛みを感じないのは人間不信だからで、そうやって考えてみると、どいつもこいつも人間不信です。
かく言う僕の中にも人間不信菌は存在しますが、身体が勝手に分泌したものがあるだけで、接種、想像上の注射器に手を出したりはしてません。挨拶の仕方を忘れるほどのジャンキーにでもなれば、痛みを感じずに済むんでしょうけど、アーティストが痛みを感じなくなったら終わりなので、耐え難きを耐え忍び難きを忍んでいます。
期待しなければ裏切られることもないんでしょうけど、裏切られることを恐れて人として終わってしまうのは御免です。
お返事ありがとうございます。
先はえらそうに書きましたが、怜士夫妻に
新年の「おめでとう」メールをお送りしませんで
お恥ずかしいです。
そこはなんとなくわかってくれていたら、
うれしいですが(苦笑)
新曲できましたねっ!(笑)
また仕事おくれっ!
先ほどのコメントは私です。
PC買い替えたさかいに、ネームがきれてました。
文体でわかるでしょうが、、、(笑)
月並みな言葉ですが、腹立つなかにごくまれに一筋の歓喜がたまに
ありますよね、それを大事にしたいと思います。