同じ地域に5軒のラーメン屋があるとする。当然ながら売り上げに差が出てくる。大抵、1位が飛び抜けていて、行列の出来る店として賑わいを見せており、二位〜四位が似たり寄ったりな売り上げの中、地味にしのぎを削っていて、5位の店に閑古鳥が鳴いている。といった具合だと思う。
もちろん、売り上げの差には様々な要素が反映されている。接客態度が良いとか、店が綺麗とか。でも、そんなものはあくまで尾ひれであって、軸となるのはやはり味。単純に美味いか不味いかだと思う。
それぞれの店がそれぞれの味を提供する。5軒あれば5種類の味がある。もし、そこにあるのが味の「違い」だけだとしたら、5軒が100人の客を20人ずつ平等に分け合う形になると思うのだが、実際にはそうはいかないのは何故かというと、味の「違い」以上に、味の「差」があるからである。
「音楽に優劣なんてない。好みの違いがあるだけだ」「音楽は勝ち負けではない」情けないことにこんなことを言ってるのはいつも音楽をやってる側の人間であって、お客さんではない。ふむふむ…約一名、頷いている奴がいて、よく見たらラーメン閑古鳥の店長。しかしながら、お客さんは常に美味いものを求めていて、味の「差」を見ている。ただ、それを自覚しているかというとそうでもないから、ラーメン閑古鳥が潰れずに済んでいる。
ラーメンにせよ、音楽にせよ、「違い」を楽しめるのは「差」が拮抗している場合のみ。やれ味噌ラーメンだ。やれ塩ラーメンだ。やれ豚骨ラーメンだ。というのは、美味いことを前提として語るからこそ楽しい。同様に、俺がやってるのがロックで、あの人がやってるのがフォークで、あいつがやってるのがブルースだというのも、実力や情熱が拮抗していて、良い音楽だということを前提として語るからこそ楽しい。
多くの人が「違い」と呼んでいるもののほとんどは「差」であって「違い」ではないと思う。