魚は常に飛んでいる

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そもそも、『水を得た魚』という言葉自体が相当おかしいと思う。魚なんだから、「得る」もなにもない。にも関わらず、こんな言葉をあえて発明し、言い、聞いて感銘を受けてしまうところに、人間の業のようなものがあるような気がする。

まず、自分が何者なのかがわからないという不思議。こんな間抜けなことがまかり通るのは自然界の中で人間だけ。そして、自分が何者なのかがわからないから、当然の如く、自分にとって何が水なのかがわからないという不思議が生まれ、さらには、幸いにも自分が何者なのかをわかっており、自分にとって何が水なのかをわかっていたとしても、わかっているにも関わらず、そこへ身を投じたり、それを得たりすることに涙ぐましい気合いを要するという不自然極まる摩訶不思議が続く。

一体何のための知恵なのか。
知恵があればあるほど不自然になる。
「不自然」と書いて「ストレス」と読む。

一体何に、誰に気を使ったら、こんな救いようのないクルクルパーに仕上がるのか。水を得るのに必死こいてる魚なんて見たことない。

得るもなにも、水が無きゃ生きていけないのが魚。魚が生きているということはそこに水があるということ。これは人間にも同じことが言えるはずで、一人格にも同じことが言えるはずで、自分が何者なのかさえわかっていれば、そしてそのことに無駄な知恵を挟まず、疑わず、ただひたすらに従順でさえあれば、羽根なんてなくたって、空なんて飛べなくたって、人間は本当は十分に自由な生き物なのではなかろうか。


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