三顧の玲
家の近所を散歩しておる際、自治会の掲示板などにこの広告・絵を目にする機会が何度かあり、その都度、自分でも不思議なくらい気になった。
しみじみ「カッコええなあ…」と見惚れて、引き寄せられるものがあり、「これはきっと(自分にとって)何かあるはずだ」と踏んで、伊丹市立美術館に足を運んだ。私が親父以外の日本人画家の個展を観に行くなんて初めてのことだ。
画家の名前は鴨居玲。
酔っ払い。
老人。
教会。
蛾。
女。
楽器。
道化師。
自分自身。
「暗い」と「重い」は似て異なるもの。この人の絵は、重くて力強い。「カッコええ…」と唸って泣ける絵画を初めて観た。
涙が眼球を薄く覆って、コンタクトレンズみたいになった。
鏡
ある時点から、自分が一体どんな人間なのかということについて、わかっているフリをすることも、考えることを避けることもできなくなった。
自分自身のことを全然わかっていないことに気付いたら、あとはもうただひたすらに不安で、ある日突然、会社の上司に「僕は一体どんな人間ですか?」と訊いてしまうほどになった。
自分がわからないということは、つまり、どうやって生きていけば良いのかわからないということだ。
今まで生きてきて、今ほど、自分という人間について考えたことはない。ここでしっかり考えて、自分自身のことを正しく捉えておかないと、この先また、同じ失敗を繰り返すことになってしまう。だから、考えて、考えて、考えて…でも、「考える」という行為は、どこまで行っても理屈絡みになるし、考える対象が自分自身となると、どうしても希望的観測を孕んでしまうから、頭が痛くなるほど考え込んでも納得のいく答えは得られず、でも考えてないと不安で…という悪循環にはまり込んで、毎日のように行き詰まりを感じるようになる。
無駄に、過度に考えるようになり、それでも納得のいく答えが得られないとなると、理屈を超えた、希望的観測を孕まない外からの言葉を、考えることの参考にしたくなる。
そこで私は、藁にもすがる思いで、街の占い師に見てもらうことにした。実は、占い師に一度見てもらいたいという願望は、かなり昔から私の中にあったのだが、実際に行動に移したのは今回が初めてのこと。結果、「あなたは一匹狼ですから、集団・組織の中ではうまくいきません」等々、色々と言われたのだが、特に印象深かったのが、「いずれにせよ、一風変わった生き方になるのは間違いありませんから、『自分は自分、他人は他人』を貫くようにして下さい」という言葉だった。また、「現状から抜け出すために」として、占い師の言葉に、「あなたが今住んでいる家から見て北の方角に、あなたの神様が棲んでおられる神社がありますから、一度御参りに行かれてはいかがですか?」というのがあり、背に腹は変えられず、早速私は、占い師が言った方角にある神社に足を運んだ。
その神社は伊丹市内にある神社なのだか、伊丹で生まれ育った私が今まで一度も足を踏み入れたことのない地域にあった。
お賽銭を投げ入れて、手を合わせる。言葉にならない漠然とした祈りを捧げて振り向くと、左手に「おみくじ」と書かれた箱があったので、百円玉を投じたら、5cmくらいの、木の板に巻かれたあぶらとり紙のようなものが出てきた。開けて見ると、紙の左端にこう書いてあった。
「世間に惑わされず、己の信ずる道を歩めば、運は開かれる」
占い師に聞いた言葉と、おみくじに読んだ言葉の内容が一致していた。思わずホッとして、全身の力が抜けた。どうやって生きていけば良いのかが見えてきたら、これを逆算することで自分自身が見えてくるはずだと考えた。
なんとかなる。
なんとかしよう。
静かな境内。冷たく澄んだ空気を、冬の明るい日差しが鋭く貫いていた。
鍵と人格
私は、ある人の前では良い人間だが、ある人の前では悪い人間である。でもこれは、自分でコントロールできることではなくて、接する人に応じて自我が勝手に反応して変化・変態してしまうことなので、仕方のないことといえば仕方のないことなのだが、心配なのは、もし、悪い私を引き出してしまう鍵を持っている人が、良い私を引き出す鍵を持ってくれている人と何らかの形で対面・対談してしまった場合に、悪い私を引き出してしまう人が、良い私を引き出してくれる人の中に、私に対する疑念みたいなものを植え付けてしまうのではないか?ということである。
良い私も悪い私も私であることに違いはない…のだろうか本当に。私の個人的な感覚で言えば、変な話だが、本当の私は良くも悪くもない。本当の私はいつも、少し離れた所から良い私や悪い私をぼんやりと眺めている。言うなれば、良い私も悪い私も私とは分離した「他人」なのである。だって、考えてもみよ。私がそんなに良いわけがないし、悪いわけがないだろう。今までだって、そんなに良かったためしも悪かったためしもないよ。だから、いつも良い私に良くしてくれているラッキーなあなたが、悪い私の話を小耳にはさんだとしても、それはあなたの知る私ではないし、私が生きる私でもないから、一切信用しないで頂きたい。また、悪い私しか知らないアンラッキーなあなたが、聞きたくもない良い私の話を小耳にはさんでしまった場合にも、それはあなたの知っている私ではないし、私にとっても私ではないから、そないに驚かなくても結構。今度は是非、鍵が無くても開く扉を探して開けて頂きたい。









