信仰の理由

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「言いたいことが言えない」これが私のパーソナリティだ。

「一憩ってどんな人?」と訊かれたら、「言いたいことが言えない人」と答えてくれりゃいい。

人知れず怒りが積もっていく。私に怒りの感情が無いと思ったら大間違いだ。

本当にイライラする時には、これを聴くしかない。これしか効かない。

私は言いたいことが言えない人間だからロックが手放せない。ただそれだけのこと。

言いたいことを言いたい放題言ってるような奴にロックンロールがわかるわけがない。

ロックはやかましい?

馬鹿野郎。

お前らの方がずっとやかましいよ。


チェリー

毎日同じコンビニで煙草を買ってると、店員がレジに立った私の顔を見るやいなや私の吸っている煙草に手を伸ばして「で、今日は何箱ですか?」みたいな顔をすることがあって、激烈にイラッ!とくる。

あまりにイラッ!ときて、全っ然欲しくない煙草、チェリーを買って帰ったことが何度かある。


博打のススメ

見え方、感じ方は人それぞれで、誰もが自分と同じように物を見ているわけではないし、感じているわけではない。でも、他人と上手くやっていこうと思えば、どうしても自分の見え方、感じ方にアレンジを加える形で他人の見え方、感じ方を読んでいかないといけないのは事実で、この読みには「ある程度の間違いは仕方がない」という観念が要る。「自分は自分。他人は他人」などと、簡単に割り切れるものではない。あくまで「自分」に基づいた想像力が無いと、対人関係なんて上手くやっていけるわけがない。対人関係というのは、徹頭徹尾、想像力の問題で、乱暴に言えば、いかに上手く予想できるかの問題だと思う。

たかが予想。されど予想。

ただ、ごくたまに、予想なんて面倒なことの一切をやめて、「自分は自分。他人は他人」だとあえて割り切って、「本当のところはどうせわかりゃしないんだから」と全てを成り行きに任せた場合に、対人関係に於いて自分の首を絞めていたのは自分だったんだということに気付かされるような真っ白な空間にポンと放り出してもらえることがあったりもする。

ところで、私、常日頃思うに、思考回路というものは時計と同じ形をしている。始点に於いて針は9時の方向を指していて、その人が物を考え始めると時計回りに回り始める。そうして考え始めて、一番クリアで正解な面白い発想が浮かぶのは針が180度回転して3時の方向を指している時。ここから先は早くも「考え過ぎ」の領域。よせばいいのに深入りに深入りを重ねた結果、針が360度回転して再び9時を指している時の発想ほど不毛なものはない。ま、私はこれを年がら年中、性懲りも無く繰り返しておるわけだけれども…。

予想し過ぎることの無意味。
分析し過ぎることの無意味。
考え過ぎることの無意味。
博打打ちなら誰でも知っていることなのではなかろうか。


鉛の気持ち

他人の言葉。

自分の言葉。

他人の態度。

自分の態度。

指に小さなトゲが刺さっただけのことで、そのことについて延々と思い悩んでしまう自分を絞め殺したいと思うことが多々ある。

でも、残念ながら人間は、自分で自分を絞め殺すことはできないようにできている。ところが、そういった神経の持ち主は、皆それぞれに、自分を徐々に絞め殺していく方法を知っているような気がしてならない。

一見幸せそうに見えるけれども、私の目には「あ、こいつはこいつで死のうとしてるな」としか思えない奴が多々いる。


逆襲の挽歌

今朝、選挙カーの爆音で目を覚ました。

嘘やろ…と思った。

「高塚ばんこ!ばんこをよろしくお願い致します!ばんこ!ばんこ!ばんこ!高塚ばんこ!ばんこをよろしくお願い致します!」

あのおばはんだけは絶対許さん!と思った。


新しい休日の過ごし方

人間というのは誠に因果な生き物で、一切動きのない光景をじっと眺めていても、頭の中の音や言葉を払拭することはできないのである。

ベランダをじっと眺めている。雀が次々とやって来ては飛び去っていくーこれが良い。

私の新しい休日の過ごし方である。