私の彼女と、我が家の飼い犬であり、私の弟ということになっている「オラ」のツーショット。
彼女の慈悲によって、オラの小屋に毛布が一枚増えた。
このように、休日はあくまで休日らしくあらねばならない。
私には、キャラメルコーンに入っているピーナッツの意味がわからない。
昨今、我が国で流行っている音楽の構造は、キャラメルコーンに例えることができる。
ダンスがコーンで歌がピーナッツだ。
私には、キャラメルコーンに入っているピーナッツの意味がわからない。
しかしまあ刺激に事欠かない人生だ。
いつ何処にいても、何かしら「初めて」だから、死ぬまで、生きることに飽きはこないと思う。
私のような者にも、同じような日々の繰り返しにうんざりすることがある。これがいつまで続くのかとうんざりすることがある。でも、私の場合、絶えず繰り返されるのは「刺激」で、刺激的な日々で、これが一年365日に渡って絶え間なく続くんだから、それなりにうんざりと疲れることもあって、だから毎年暮れになると「クソ長かった」という感慨は抱いても、「あっという間だった」なんてことは、子供の頃から思ったことも言ったこともないのである。
要は感じ方、捉え方の問題だと思う。そして、外に対する感じ方や捉え方は、内に対する感じ方や捉え方、つまり、自分自身をどう感じて、どう捉えているのかということの反映だと思う。
私は、自分という人間はまだまだガキンチョだと思っている。完全にガキンチョだと思っている。外のことを理解する以前に、自分自身のことを全く理解できていない。
経験値の低さと頭の悪さから言って、どう考えても実年齢では割り切れないものがある。
36にしてありとあらゆることが初体験。毎日が刺激と緊張の連続で、たまに疲れて自暴自棄気味になり、ヤケ酒を煽ることもあるが、その代わり、実年齢をいくら重ねたところで、覇気のないグダグダな大人になる危険性だけはないだろうと踏んでいる。
私は、歳をとることを悪いことだとは微塵も思っていない。思ってはいないけれども、私は、あんまり歳をとらないと思う。
それが良いことなのか悪いことなのかは別として…。
負けを素直に認めることができる人に限って、実はめちゃくちゃ負けず嫌いで、自分の勝てるポイントを絶えず模索しているように思う。
駄目なものは駄目だと潔く諦めて、嗅覚鋭く、少しでも勝算の立つ方向へヒラリと身を翻すしなやかさが、負けを素直に認めることのできる人にはあると思う。
負けを素直に認めることのできる人は、負けるたびに路線に修正を加えて、負けるたびに強くなっていく。
つまり負け犬は、負けを認めないから負け犬だ。