山羊の夢

昨晩、妙な夢を見た。

誰かが言った。「お前、ホンマは水瓶座じゃなくて山羊座やで」「嘘っ!?」それから、目の前に一頭の山羊が現れて、俺、山羊って、目が気持ち悪くて基本的に好きじゃないから、「嫌やな…」と思った。という、ただそれだけの夢。なんてことのない夢なのだが、山羊って、例えばストーンズのアルバムタイトル『山羊の頭のスープ』に代表されるブードゥー教のイメージ。魔術的で不穏な印象があって、あまり良くない意味合いがあるような気がして、落ち着かない。という、ただそれだけの記事。


初恋

もう一度会いたい人がいる。それは、小4の時の担任、原田先生。そう、前記事の中でガキ大将を張り倒した先生である。この人については、これまでにも何度か書いたことがあるから、ベテラン読者の皆さんはよくご存知だろうと思うのだが、最近、新しく読者となってくれた人たちの為にもう一度書いてみようと思う。この人について書くのは、何度書いても楽しいし。

原田先生は、本来、担任になるはずだった先生が産休に入ったので、その代わりにやって来た先生の卵だった。生まれて初めて見た壮絶な美人で、冗談抜きでこの人に似ていた。

「綺麗な人だな…」見惚れていると、教室の後ろの方までダァーッと走っていって、「すん!」のガキ大将を張り倒したから、皆、唖然として凍り付いた。俺は「頭の良い人だな」と思った。というのも、担任になった初日に、一瞬にしてクラス一やんちゃな、クラスのリーダー格を、皆が見ている前で捩じ伏せたからである。押さえるべきところを押さえたとでも言おうか、「彼が逆らえないんだから誰も逆らえない」皆、思った。

担任になった原田先生が最初に言い放ったクラスの決め事は、「アンタらの揉め事はアンタらで解決しなさい。絶対に先生に言い付けないこと。言い付けられても先生は知らん」だった。これは衝撃だった。それまで、何か揉め事が起こると先生に言い付けて、先生に解決してもらうのが当たり前だったのに、それが禁じられたんだから、本当に驚いた。「そんな馬鹿な…」皆、思ったと思う。でも、蓋を開けてみると不思議なことに、皆、何か揉め事か起きても慌てず、自分たちで解決するようになった。そして、揉め事自体がなくなった。

皆が学校にこっそりオモチャを持ってくるようになった時も、原田先生のやり方は皆の度肝を抜いた。「持ってきたらアカン」と言うのかと思ったら、真逆で、「じゃんじゃん持ってきなさい」だったからである。そう言われると、一気に冷めた。皆、オモチャを持ってきて自慢して喜んでいるのは金持ちの子供だけであることに気付いて、馬鹿らしくなって、僅か数日で誰もオモチャを持ってこなくなったのである。

実を言うと、張り倒されたのは「すん!」のガキ大将だけではない。俺も一度、張り倒された。広報委員の仕事をサボったからである。めちゃくちゃ怖かった。後にも先にも、俺を張り倒したのは、親父と原田先生の二人だけである。

原田先生は、子供の独創性を何より大切にした。独創的であれば、たとえそれがちょっと滅茶苦茶なことであっても、一切怒らず、それどころか物凄く嬉しそうな顔をして応援してくれた。俺が授業参観の時に、牛乳パックと輪ゴムでギターを作って持っていった時も、これでもかと言うくらい喜んで、褒めてくれたし、テストの回答用紙の裏に絵を描いた時も「素晴らしい!」と大きな花丸を書いてくれた。

学級会で、クラスの意見が真っ二つに分かれて、壮絶な論争になった時、原田先生は脚と腕を組んだまま一切口を挟まず、皆が、自分たちで問題を解決するのをじっと見守っていた。そして、問題が解決すると、皆に「校庭空いてる?」と訊いて、「空いてる」と答えると、「じゃ、みんなでドッジボールでもしてきなさい!」と言って、皆を送り出した。わあああ!皆、奇声を上げて飛び出した。学級会での論争で熱く、固くなっていた頭が一気に解放されたような感じがあって、なんか、素晴らしい光景、感覚で、「俺、これ、一生忘れないだろうな」と思ったし、「原田先生は最高だ」と心から思った。

カナヅチの俺が生まれて初めてクロールで25m泳げたのも、原田先生のお陰だった。25m先のプールサイドにしゃがみ込んだ原田先生が、笑顔をギラギラ輝かせて手を叩きながら、「さあ、いっけちゃん、ここまでおいで!」と言うので、何も考えず、先生の期待に応えたい一心で、水をガブガブ飲みながら一心不乱に泳いで、泳ぎ切った。おそらく、生まれて初めて強く「期待に応えねば」と思った瞬間であり、応えた瞬間だった。

5年生になって、原田先生がいなくなると、途端にまた泳げなくなったけど…。


うんとすんの間

小4の時、先生に「うんとかすんとか言え!」と言われたガキ大将が「すん!」と答えて張り倒されたことを覚えている。

自分自身のことを棚に上げるつもりはない。俺自身、そうなのだが、NOが言えないことを気に病んでいる人の辛さは、NOの他にはYESしかないと考えているところにあると思う。YESとNOしかなくて、NOが言えなかったら、それは、ただ黙ってベルトコンベアに乗っているだけのようなもので、そんな人生は人生じゃないし、「無理がある」どころの話じゃない。

人生、二択を迫られることが多い。迫る方は「どちらか選べ」とエラそうに選択肢を与える素振りをしているが、顔には「ま、YESしか認めんけど」と書いてある。そうして、無理矢理にでもYESと答えることを美徳とするような空気が生まれて、その中にあって「すん!」と答えると張り倒されるから、大抵の人は黙ってベルトコンベアに乗る。冒頭に書いたガキ大将も、あの時、張り倒されて泣いてしまってからというもの、ガキ大将の座から引きずり降ろされて、先生の顔色ばかり窺う犬みたいになってしまった。

NOが言えるというのは、張り倒されることを覚悟するということ…と、言うのは簡単だが、誰だって出来ることなら張り倒されたかない。でも、これは是非とも克服したい。いつか必ず、どこかのタイミングで、NOと言える人間になりたいし、ならねばならない。とはいえ、今すぐというのは無理な話。時間をかけて付けた癖は、時間をかけて治さねばならない。時間がかかる。逆に言えば、時間をかける価値があるのだが、では、NOと言える人間になる為の努力に時間を費やす間、どうすれば良いのか。ベルトコンベアに乗りながら克服出来るほど器用な人間なら、とっくに克服出来ているだろう。そこで考えたのが、YESでもNOでもない、その中間。「どちらでもない」である。これを習得すれば、NOは言えずとも、YESと「どちらでもない」の二択を生きることが出来る。

「どちらでもない」には「受け流す」という意味合いも含まれている。のらりくらり、明言を控えて、事態が収束するのを待つ。迷いにあえいでいる自分の存在が火に油を注ぐ結果となって、事態の収束を遅らせている可能性だってあるんだから…なんてこと言うと、随分と腑抜けた考え方だなんて言う人もあるかもしれないが、これは昔から政治家の常套手段だ。あの人たちは馬鹿の一つ覚えみたいにあればっかりやってるからみっともないだけで、やり方としては、一つの処世術ではあると思う。この考え方に抵抗感があるという人もいるだろう。じゃ、お尋ねしたい。信号機には青と赤だけがあれば良いのか?

信号機に青と赤しかなかったとする。車で走ってみなはれ。一発で事故るから。信号機に青と赤しかない場合と、青と黄しかない場合と、どっちが事故が多発すると思う?間違いなく青と赤しかない場合だ。何事も、両極端、これが一番危ない。例えば、交通量の少ない田舎の道路で、青も赤も消えていて、黄だけが点滅している信号機を見たことがあるけど、あれは黄だからこそ務まる役目。

考え方に遊びのない人に限って黄を忘れている。でも、自分の中に黄を灯すのは、赤を灯すよりずっと簡単。だから、赤を灯せるようになるまでの間、その代役を黄に任せておいて、赤が灯せるようになった時に、三択を生きられるようになっている自分を人目憚らず喜べばいいと思う。


フライングV字回復

ビートたけし。俺の子供の頃からの憧れであり、人生の師匠である。事実、子供の頃から今に至るまでずっと勝手に「師匠」と呼んでいる。今もカッコいいけど、昔はもっとカッコ良かった。半端なくカッコ良かった。シャイで色気のある魅力的な不良だった。ブルーハーツのヒロトとマーシーが「ロックとは?」と訊かれて「たけしさん」と答えていたことを覚えている。

俺が本格的に師匠の事を好きになったのは、あのフライデー襲撃事件の時だった。殴り込んだ理由は、当時付き合っていた一般女性の写真が雑誌に掲載されたからで、自分の名誉を守りたいが為とか、そういうことではなかった。記者会見で質問に答える師匠の顔が今も忘れられない。猛烈に怒っていた。「何が悪い」とでも言いたげに、絶えず落ち着きなく身体を揺らしていた。

そんな師匠も、芸能活動を自粛せざるを得なくなって、どこかの島に引きこもると「二度と戻れないかもしれない」という不安に苛まれたらしい。それまで親しくしていた人たちも掌を返したように態度を変えて、「たけしは終わった」と誰も会いに来ようとはしなかった。が、一人だけ、時間さえあれば「たけし、元気かあ〜」と言って会いに来てくれる人がいて、それがB&Bの島田洋七だった。師匠は、洋七が来ると飛行場まで迎えに行って、「お前、暇か。馬鹿野郎」とか何とか言いながら泣いたらしい。

バイク事故もあった。本人曰く「酔っ払い居眠り運転」だったらしく、奇跡の復帰後、「俺、あの時、死のうとしてたんじゃないかな…と思う」と漏らしていた。あの時はさすがに誰もが「終わった」と思ったに違いない。ここぞとばかり、師匠が弟子入りした覚えのない年寄りの芸人が「俺はたけしの師匠だ」と言って師匠の見舞いに来て、明からさまに売名行為を働いたりもした。たけしもいよいよ終わりだな…誰もがそう思っていた時、親友、島田洋七と並ぶ大親友である中田カウスだけは別で、こう言った。「たけしは死なない。終わらない。それどころかさらに大きくなって、いよいよ我々の手に届かない存在になる」予言は的中。復帰後、師匠は「世界のキタノ」と呼ばれるようになった。

師匠は二度、死のうとしたんだと思う。一度目は芸能人として。二度目は人間として。でも、頭に「大」の付く親友の存在が常にあって、彼らは師匠が死なないことを希望的観測などではなく、「知って」いて、事実、死ななかったし、終わらなかった。そして、復活するたびに確実に大きくなった。

…と、この文章、自分でも何が言いたいのかよくわからない。ただ、人間誰しも、真面目に、必死に生きていれば、自分を終わらせたいと考えることの一度や二度はあるだろうし、それは断じて発作的な病気なんかじゃないし、恥ずべきことではないということ。それから、必ずどこかに、そのことについて正しい見方をしてくれる人の存在があるんじゃないか?ということ。そして、そのたびに、そうやって終わりを意識するところまで落ちるたびに、それでも死なず、終わらなかった場合に、人は、本当の意味で変われるし、成長するんじゃないか?と、ふと思ったので書いてみた。


JUST SAY NO

人は言う。「責任感があるから緊張する。責任感がなかったら緊張なんてしない」と。また、「どうでも良くないことだからこそ緊張する。どうでも良いことなら緊張なんてしない」とも言う。一理ある。でもそれって普通だろう。普通の人はそうだというだけの話であって、本当の緊張しぃには当てはまらない。もし、上のように考えている人がいるとしたら、本当の緊張しぃの気持ちなんて理解できないと思っておいた方が良い。

本当の緊張しぃには、責任感云々なんて関係ない。どうでも良い/良くないなんて関係ない。だから、いかに苦しくとも、その苦しみを上手く説明することができない。どうせ理解してもらえないだろうと諦める。責任感がなくても緊張するし、どうでも良いことをする時にも緊張する。つまり、どうでも良いことすらまともにやれない、能力が発揮できないということ。これが狂おしいのだ。

バスに乗れない人がいる。痴漢に遭ったとかそういうわけでもないのに、ある日突然、手が震えて、冷や汗が出て、怖くて乗れなくなったという人がいる。バスに乗るのが怖い。この気持ちを理解してあげられる人がどれだけいるだろう。あるいは、人と喋る時、相手の目を直視できない人がいるけど、そのことについて、理解できなくても、理解しようとする人がどれだけいるだろう。理解しようとする時、自分の中に考える引き出しをどれくらい持っているだろう。引き出しのなさは、常日頃の人に対する興味のなさから来ている。だから、引き出しのない人間に人を理解できるわけがないし、結論から言えば、そもそも理解しようとはしないだろう。緊張しぃのことも、バスに乗れない人のことも、相手の目を見て喋れない人のことも、雑に一纏めにして「精神疾患」なんて言葉で括るんじゃないか?もし、そんな奴がいるとしたら、いや、実は相当数いると想像するけど、それはそいつらこそ精神疾患だと思う。

緊張しぃでも、バスに乗れなくても、相手の目を見て喋れなくても、生きていける。欧米では、教育として、子供に「just say no」という言葉を教えるという。要するに、「無理なものは無理と言いなさい」「嫌なものは嫌と言いなさい」という意味なのだが、日本人にももう少しこの考え方が定着すれば良いのにと思う。緊張しぃでも良いじゃないか。バスに乗れなくても良いじゃないか。相手の目を見て喋れなくても良いじゃないか。誰よりも理解に飢えているからこそ、人を理解しようと努力する。そうして、人の、言葉にならない苦しみを理解できる。人を理解することについて都合良く「just say no」を持ち出してくる精神疾患野郎どもより、長い目で見ればずっと楽に、幸せに生きていけるに違いない。

「人は一人では生きていけない」これほど揺らぐことのない原則はないんだから。


酒に吹かれて

ここのところ、色々と物思いに耽っている。特に、酒については深く考えてみるタイミングだろうと思い、ある本を手に取ってみたところ、中に「自己認識を改める」という項目があり、この項目を目にした瞬間から堰を切ったように「そういえば」と気付きが溢れて…以下に、箇条書き的にいくつか書いておこうと思う。

*まず気付いたのは、俺は本来、俺自身が思っているほど明るい人間ではないということ。なのに、常に明るい人間でいなければという思いが強く、また、周りの人たちも俺を明るい人間だと思っているに違いないから、それに応えねばと思って生きている。自分自身からの、周りからの、幻聴とも言える期待に「勝手に」応えようして、絶えず酒の力を借りてきた。これを俺は「ドーピング」と呼ぶことにした。

*一人で飲む時。つまり、周りに知人が誰もおらず、自分自身の期待に応える必要もない状況で酒を飲む時の俺は救い難く暗い。大人の真似事をして、一人で店に飲みに行ったことも一度や二度ではないが、そもそも、店の人や他の客と親しくなりたいなんて気持ちは微塵もないから、ただカウンターの片隅に太宰治みたいな頬杖のつき方をして黙って飲んでいるだけで、一つも楽しくない。食べているものの味にすら興味が湧かず、ただただ切ないだけだった。

*俺の中にも怒りはあるらしい。「らしい」と書いたのは、日頃、自覚症状と言えるものがほとんどないからで、たまに、自分が作った曲やイラストの中にそういったものを感じて、自覚して、自分はきちんと吐き出せている、発散できていると思って安堵するのだが、制作という、ある種枠ありきの手段では吐き出しきれない怒りが相当量自分の中に溜まっていることを酒を飲むことによって思い知ることがある。眠らせておけば良いものを呼び覚ましてしまう感覚…とでも言えば良いのか。自分でもわからない。ごくごく稀にではあるが、酔っ払って、爆発的に攻撃的になり、相手構わず毒付いて、事実上の出禁。恥ずかしくて二度と顔を出せなくなった店もある。

*アテがないと飲めないという人がいるが、俺はただひたすらに飲み続けるばかりでアテはいらない。コーヒーや紅茶を飲む時に、甘いものが必要不可欠だという人もいるが、俺は、酒を飲む時、酒さえあれば良い…というのは事実なのだが、それはアテを食べ物に限った場合の話であって、俺にも酒を飲む時に必要不可欠なアテがある。それは、音楽。基本的に、音楽を聴きながらでないと飲めないし、飲みながらでないと音楽を聴く気になれない。厳密に言えば、後者の傾向が酷い。つまり、酒を一滴も飲まないということは、音楽を一切聴かないということ。事実、そうして、一日を終えてしまったことが何度かある。紛いなりにも音楽をやる人間として、どうなんだろうと思う。

*たまに人に身長を訊かれることがある。サバを読む必要なんてどこにも無いから、素直に「172㎝です」と答えるのだが、何故か昔からこう付け加える癖がある。「自分の中では160㎝くらいなんですが」必ずと言って良いほど付け加える。これは一体何なのか。おそらく、これこそ「自己認識」で、そのズレの表れなんだと思う。所謂「自己評価が低い」というやつで、わかりやすく言えば、本当は自分には172のことができて、それは人並みと言えるのかもしれないのに、自分の中には172のことができるということ以上に「12のことが出来ない」という頭があって、この12を忘れたいがために、実際の数字に戻したいがために酒を飲んでしまう。結果、酔っ払っている間は、少し水増しして175㎝くらいの自分を感じるのだが、翌日、頭痛で目を覚ました自分が感じるのは155㎝くらいまで縮んでしまっている自分だったりして、深く幻滅する。だから言ったろう。ドーピングだって。

*こう見えて、昔は自慢できるほど友達が多くいた。でも、気付けば、一人去り二人去り…いまや片手で数えられるくらいにまで減ってしまった。思えば、ここにも酒が絡んでいるように思う。男同士の場合、女同士のようにカフェでお茶をして、ランチを食べて、その間、話題に事欠くことなく、それからまたウィンドーショッピングに繰り出して…というわけにはいかない。「飲む」の一点のみが接点で、飲んで喋って酔っ払ったらそれで終わり。次に会うのは数年後だったりする。そんな接し方で相手のことをまともに理解できるわけがなく、長く顔を合わせない間に妙な誤解が生じたりするのは当然の流れ。昔は、酒など飲まずとも、会うだけでドーパミン的なものが分泌されて興奮できて楽しかったのに、いつの間にかそれが出来なくなり、酒の力を借りなければまともに喋れなくなった、笑えなくなった、というお互い様。これは幼馴染みと会う場合にも同じだったりして、これって本当は、めちゃくちゃ悲しいことだと思う。

*例外として、ライブでステージに立つ直前だけは、「酒の力を借りる」という言葉に悪い響きを感じずに済む。飲む酒の量を微調整して緊張感をベストな状態に持っていく…というのは、自分の中に弦が張ってあって、そのチューニングをしているんだと捉えている。チューニングというのは、少し張り過ぎにしておいてから少しずつ緩めてベストなポイントに持っていくというのが正しいやり方なのだが、これと同じことをメンタル的にしているんだと思う。弦を張り過ぎていると音が高くなるように、緊張し過ぎていると声がうわずる。これを緩めて、ベストなポイントに持っていくというのは、それがたとえ酒の力を借りるというやり方であっても、ベストなパフォーマンスのためなら、お客さんに旨い酒を口にしてもらうためなら、決して悪いことではないと思う。