藻野郎2

テクニックよりもスピリット!という考え方は、人間関係に於ける許容範囲にも深く影響してくる。

テクニックを優先している人間に比べて、スピリットを優先している人間は、他人に対する許容範囲が圧倒的に広い。テクニックを優先する人間が木を見ているのに対して、スピリットを優先する人間は森を見ている。

ただ、スピリットを優先して生きる場合に気を付けないといけないのは、私もつい最近まで、ここんところを大きく勘違いしていたのだが、スピリットを優先するからといって、「テクニックはどうでもいい」ということではないということだ。

本当は、スピリットがあってテクニックもあれば、それに越したことはない。あくまで、基本的にどちらを優先するのかという話であって、どちらかを獲ってどちらかを棄てるという意味ではない。どちらを軸に持ってくるのかという話だ。

ちなみに、個人的な経験から言わせてもらうと、「テクニックもスピリットも」などと言っている藻野郎には、テクニックもスピリットも無い場合が多いから気を付けろ!


頭の中の4人

ビートルズは、レコーディング中の失敗を喜んだらしい。

失敗は考えて出てくるものではないから、時に凄く斬新で、これを巧く活用すれば、全く新しいものを生み出せる―と考えた。「わざと間違えたりもしたよ」とポールが言っていた。

アホなHOW TO本のように、ただ「失敗を恐れるな」とだけ言われても、そうそう素直に呑み込めるものではない。何か別の角度から、失敗というものを出来る限り肯定的に捉えたい―と思うたび、私は、ビートルズのレコーディング風景を想う。


人生の紆余曲折を経て、私の考え方も随分変化したものだ。いい感じになってきたなあ―などと思っていたが、昨晩酔っ払って書いた二つの短い文章『わざとらしい』と『ROCKとSEX』を、一夜明けて読み返してみたら、何のこっちゃない、考え方が本来の自分のものに戻ってるだけだ。

テクニックよりもスピリット!―かつての私の軸となっていた考え方だ。だから、私にとって、別に、新しくも何ともない。でも、あの頃と今とでは、同じ言葉、同じ考え方ではあるが、重さが全然違う。
あの頃、ただのイメージだったものが、今は実感として、実質として自分の中にあって、バカ殿の刀のように、いつでも手の届く所にある。

原点復帰―同じ場所に戻っては来たが、同じ人間が戻って来たわけではない。

ひとつ、掴んだ。ちょっとだけ、強くなった。


わざとらしい

音楽にしろ、文学にしろ、絵画にしろ、SEXにしろ、何にしろ、テクニックを売りにしてる奴はスピリットがなくてウンザリする。

そもそも、スピリットがないことを自覚してるから、その穴埋めとして、テクニックを磨いてるんじゃないのか?

スピリットのないテクニックは―ゴミだ。


これも縁

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我が部屋に新たに導入され、トミーさんのステッカーを貼られることによって無理矢理トミーさん仕様となった中国製ポータブルDVDプレイヤー。

スクリーンセーバーをぼ〜っと見つめていて気付いた。

「…もともとトミーさん仕様やん!!」