猫とアヒルの葛藤

眠れないのである。

スリープ機能で、シンディ・ローパーを聴いているのであるが、アヒルである。
シンディ・ローパーは、上唇が、ぶりん!と、めくれ上がってるイメージがあって、動物で例えるなら、アヒル以外に無いのであるが、いかんせん、我輩は猫である。

眠れないのである。


超偶然

「あ、すいません。本日、面接を受けさせていただくことになっている和田と申しますが、面接会場へどう行けば良いのかを、もう一度確認しておこうと思いまして...。」

「あ、和田くん?和田くんかいな!俺や、俺!久しぶりやなあ!」

「はい?え!?〇〇さんですか!?」

こんなことってあるのだろうか。先程体験した…完全な実話である。


訊け!もっと、訊け!

履歴書を書いた。書き損じ倒して、7枚目でようやく、ちゃんと書けた。

明日、面接。私の大好きな面接…冗談じゃなくて、私は本当に面接が大好きなのです。自分のことについて、色々と訊かれること自体嬉しいし、それに片っ端から答えていくのが本当に、楽しい。

え?どんな仕事かって?そんなくだらないこと訊いてどうすんの?なんだって良いじゃねえか。職業に優劣なんてないよ。職業に、優劣なんて、ございません。

馬鹿たれが。


私的マルムスティーン論

私はパンクが大好きである。とはいえ、最近のパンクはどうでもいい…っていうか、どちらかというと嫌いで、私の好きなパンクは1977年〜80年代初頭のもの。具体的には、ピストルズとか、クラッシュとか、ダムドとかで、日本だと、INUとか、『虫』の頃のスターリンとかであるが、では何故、最近のパンクが嫌いなのかというと、理由は単純明快に2つあって、一つは、「全っ然怒ってないから」もしくは、「怒ってるふりをしているだけだから」で、もう一つの理由は、「演奏が上手すぎるから」である。
私にとって、パンクは、「怒り」そのものでなくてはならず、そうして、そうした怒りの感情が昂り過ぎて、暴発して、技術がないがしろになってしまっているかのような形でなくてはならないのである。
怒り心頭の余り、表現が荒くなればなるほどにパンクはパンクであって、逆にいえば、技術がしっかりしていて、荒さが見受けられないというのは、要するに冷静だということで、冷静なパンクなどと言うものは、冷めたラーメンや、辛くないカレーや、東大出だが頭の悪い菊川怜のようなもので、出されてもどうリアクションを取れば良いのか困る、非常に迷惑なものなのである。
「一歩間違えたらゴミ」というのは、私の大好きな言葉で、私は芸術全般に於いて、この「一歩間違えたらゴミ」感を最重視するが、この感じ、この感じこそが私のパンク観であって、極端に言えば、私にとってパンクとは、スタイルの問題ではなく、姿勢の問題なのである。

ところで、ここ数ヶ月間、私はイングヴェイ・マルムスティーンをよく聴いている。何故か?めちゃくちゃパンクだからである。もう、なんだか、こいつヤバいんじゃないか?ってくらいに、めちゃくちゃに怒り狂っているのである。
イングヴェイの音楽はよく、「クラシカル・メタル」などと称されるが、それは間違いで、私に言わせれば、あれは、「クラシカル・パンク」で、まさかの新ジャンルである。そうして、彼に付きまとうイメージと言えば、やはり、「早弾き」であると思われるが、これも間違いで、彼の、あれは、「喋り」である。怒りを喚き散らし、捲し立てているのである。ツービートの頃のビートたけしのようなものである。
怒りの塊がギターを猛烈な勢いで弾いているので、演奏にも、めちゃくちゃな荒さがある。昔はもう少し冷静だったが、最近のアルバムではもう、随所随所で、ブギュフ!とか、ズビュキュ!とか、モキャパ!とか、ギターが悲鳴をあげちゃってて、えらいことになっているのである。
そしてまた、イングヴェイの手にかかると、バラードまでがパンクと化す。一つ前の曲まで、怒り狂ってた奴が、突如、感傷の鬼と化して、ギターは、「もう堪忍しておくんなはれ!」とばかり悲鳴をあげ、この悲鳴が感傷の鬼の燃えたぎる魂に油を注ぎ、結果、アルバム全体が炎上するのである。
イングヴェイを是非ともパンクスプリングに参戦させて欲しい。自称パンクバンドの大半は木っ端微塵に吹っ飛ぶと思う。

私はイングヴェイが大好きである。本物のパンクを鳴らす奴として大好きである。


吾輩は猫である

或る日、最旧友が私にこう言ったのである。
「動物に例えたら、お前は完璧に猫やな。ほんで、俺は犬やわ。」

最旧友は、この言葉の真意について、事細かに解説してくれたのだが、私には、その解説がいちいち腑に落ちて、目から鱗の有り様で、この時、私は、一種の覚醒というものを体験したのである。
その時、私の目には彼が占い師か何かに見えた。さすがは最旧友だけあって、その分析にいちいち説得力があり、私の性質を見事に見抜いていたのである。
そう、吾輩は猫である。考えてみれば、私に犬的要素など皆無で、その証拠に私は、「窮屈」ということを極端に嫌うし、人付き合いに於いても、年上だからどうした、年下だからどうした、関係あらへんがな。などと、妙に縦社会を忌み嫌う傾向があり、そうやって、一見、唯我独尊のようでありながら、その実、実に甘え上手なのであって、これらの分析は全て、この最旧友によるものなのであるが、悔しいけれども、全て正解であると認めざるを得ないというのが本音なのである。

ここ数年間の私の困難、苦悩、煩悶は、全て、私の自己分析の誤りから来ていたようである。私は、自分では、吾輩は犬であるとばかり思っていた。そうして、私は、猫嫌いの犬好きであるとばかり思っていた。それを、最旧友は「逆だ」と指摘してくれたわけで、私は、彼のおかげで、いくらか寿命の伸びた心地である。

狭い庭に小さな小屋が一つあり、その小屋に首輪と鎖でもって繋がれている猫が、「おっかしいなあ〜。何でこんなに窮屈なんやろ。」と連日首を傾げている。本人はワンと吠えているつもりなのだが、実はニャアと鳴いている。小屋の前で足を止める人間は、どいつもこいつも頭ではなく、喉を撫でてくるし、飼い主から提供される餌は、どういうわけだかいつも、固いドッグフードばかりで、ぺディグリーチャムやモンプチなんて食ったこともない。また、散歩についても、全く意のままにならず、時刻、ルートなど、全て飼い主の都合で決められ、飼い主が、教習所の教官のようにずっと自分に同行し、見張っている。あと、何故か無性に鼠が気になるが、鼠はこちらを見てニヤニヤ笑っている。ムカつくので、ワンと吠えるが、実際はニャアと鳴いていて、迫力に欠け、鼠は抱腹絶倒し、猫は日を重ねるごとに自信を喪失していく。

どうもおかしいと思ったら、どうも何もかもが不本意だと思ったら、吾輩は猫だったのである。


有難がらない男

芸術作品に於いて、「夢を持て」だの、「希望を持て」だのといったメッセージを搭載しておるものは、片っ端から無視してしまって構わないと存じます。
もの言いが上目線だからです。言葉を、メッセージを偉そうに投げ下ろすな、と。ギブ・ミー・チョコレートじゃないんだから、と。
言葉は、メッセージは、自分と同じ目線の高さから来るものだけを信ずれば良いんじゃないかと、わたくしは思います。

はい。