地味な趣味
たまに動画の視聴回数をチェックする。何故かというと、単純に、面白いから。そんなに頻繁にライヴをやってるわけじゃないし、知名度もないのに、見るたびに少しずつ、本当に少しずつではあるけど着実に伸びていってる。たまにまさかの順位変動があったりなんかして、ヒットチャートを見ているようで面白い。
普通に考えれば、公開日の古い順に視聴回数は高くなるはずで、そうだとすれば順位は以下のようになる。(カッコ内は公開した日)
1位 バタフライ(2017.11.6)
2位 FLOWERS IN THE DIRT(2017.11.11)
3位 紙吹雪舞う(2018.2.5)
4位 果物をてんこ盛った巨大なケーキ(2018.3.28)
5位 檸檬(2018.4.7)
6位 SURFBLUE(2018.5.1)
7位 ポーラスタア(2018.5.28)
8位 ハングリーマン〜未来へ(2018.6.18)
9位 savvy?(2018.8.23)
10位 DABADA TV SHOW[sideA](2018.11.26)
10位 DABADA TV SHOW[sideB](2018.11.26)
こうなるはず。が、現時点の順位は以下のようになっていて、「こうなるはず」と実際との違いを分かりやすく表してみた。
1位 バタフライ(➖)
2位 SURFBLUE(⬆︎4)
3位 FLOWERS IN THE DIRT(⬇︎1)
4位 紙吹雪舞う(⬇︎1)
5位 ハングリーマン〜未来へ(⬆︎3)
6位 檸檬(⬇︎1)
7位 果物をてんこ盛った巨大なケーキ(⬇︎3)
8位 ポーラスタア (⬇︎1)
9位 savvy?(➖)
10位 DABADA TV SHOW[sideB](➖)
11位 DABADA TV SHOW[sideA](⬇︎1)
個人的には、僅か11回差の中に5曲がひしめき合っている激戦区、3位〜7位の変動を楽しみにしている。特に、今まで一度もライヴで演ったことのない「檸檬」が100回越えで6位につけているのは非常に興味深いことだと思っている。
当ランキングは今後も、順位に変動があれば更新、報告していくことにする。何故かというと、単純に、やってて楽しいから。
誰かが観てくれてると思うと嬉しいしネ。
雪と花火と芽
ライヴという表現に、一瞬燃えて煌めいても、すぐに消えてなくなってしまう寂しさというか、虚しさのようなものをどうしても感じてしまう。アマチュア・ミュージシャンが連日ステージに立ち続けるのは、絶えずやり続けていないと自分のやっていることが一瞬にして消えてなくなってしまうという恐れがあるからじゃないか?と思う。
雪が降ってきて、手の平の上に落ちて、スッと消えていく感じは嫌いじゃないし、花火が上がって、夜空に大輪の花を咲かせて、スッと消えてなくなる感じも決して嫌いじゃない。日本人だから日本人らしく「儚さ」って綺麗だと感じる。でも、自分が音楽をやることについてとなると、それじゃ困る。すぐに消えてなくなってしまうようでは困る。いつでも、そこに行けばそれがあるというような、時間の経過に耐え得る、ある意味、形あるものであって欲しいと願う。
これまで、ライヴ会場を固定してきたのも、ライヴに並行して音源や映像を作ってきたのも、そういう想いがあってのこと。音楽特有の、一瞬にして消えてなくなってしまうという性質に抗ってのことで、やり方としては間違いではないはずだし、これからも継続していこうとは思っているのだが、最近、それだけでは弱いような気がしてきた。他にも出来る事があるような気がしてきた。
で、ここのところ何故か、自分のバンドを持ちたいと考えるようになった。サポートという形で、自分の脇を固めてくれるメンバーを探してみよう、募ってみようという気になった。ソロとバンドの間を行ったり来たりしてみたい。それが何故、自分のやっていることが儚く消えてなくなってしまうことに抗うことに繋がるのかは、正直、自分でもわからないのだが、俺の場合はこの「根拠がない」とか「理由がない」とかいうことに基づいた決断こそがものを言う。だから、とりあえずやってみよう。
新しいことを始めようと思い立ってはみたものの上手くいかなった場合に、「上手くいかなった」と判断するのが早過ぎることがよくある。でも、蒔いてすぐに芽を出す種なんてないし、自分がまだかまだかと待ち侘びながら眺めている所とは別の所から、自分が想い描いているものとは似ても似つかないものが芽を出すこともある。
初詣2019
例年の如く、俺の神様がおるとされる神社にお参りに行ってきた。これで3年目。昨年も一昨年も素晴らしい一年だった。
おみくじを引いたら「一」と書かれた棒が出てきて、巫女さんに渡したら「一ですね」と言って紙を渡された。紙を開いたら人生初の大吉だった。
前の記事でも書いたように、俺は2019年はものすごく良い年になると踏んでいた。そこに神様が太鼓判を押した形だ。
昨年学んだのは、明るい表情を浮かべて前向きな言葉を自信を持って吐いていれば、人生は俄然良くなるということだった。今年はこれを徹底していこうと思っている。
今年は俺の側から離れない方が良いよ。
俺の側にいれば安泰。
なにせ、「一」を引き当てた大吉野郎なんだから。
2018 フェイドアウト
本厄が聞いて呆れる素晴らしい一年だった。
世界最強のロックンロール・シンガー、リアム・ギャラガーのライヴを観、日本最高のロック詩人、佐野元春のライヴを2度も観、それから自分も、故郷伊丹で何度か素晴らしいライヴを演って、我ながら聞き応えのあるライヴ盤を何枚か作って、さらには家庭円満で仕事も楽しかった。文句の付けようがない。あの地獄の30代は一体何だったのか。あの10年を生き延びたんだから、今さら厄年もヘッタクレもないよ。
今年があって来年があり、来年は今年の上に積み上げるもので、今年が来年の土台になるんだから、来年も素晴らしい一年になることは間違いない。音楽人としては、来年は変化の年にしたい。何か、これまでとは違った事がしたいと思っている。
しかしまあ毎年、年末になると思うのだが、一年というのは長い。今年もクソ長かった。来年もどうせクソ長いんだろう。感覚的にはもう60年くらい生きてきた感じだ。にも関わらず、精神年齢が小4で止まっているというのはどういうことなんだろう。
永遠の小4ロックスターは来年も躍動します。
始まりはいつも俺
恋愛しかり、音楽活動しかり、俺が人を誘うことはあっても、人が俺を誘うことはない。「誘う」って言うと、なんかアレなので、要するに「申し入れ」ですな。今に始まった話ではなく昔から、俺から人に申し入れることはあっても、人から俺に申し入れてくることはない。
女の人から「付き合ってくれへん?」と言われたのは41年の人生でたった一度だけ。バンドマンから「一緒にやらへん?」と言われたことに至ってはただの一度もない。また、これまで幾つかバンドをやってきたが、解散することになってフリーの身になった時に、他のメンバーにはよそから誘いの声がかかったが、俺には一切かからなかった。
恋愛に関しては、自分から行かねばならないのは仕方のないことだと思っていた。男として自信も売りもないんだから「待つ」という選択肢はない。恥もプライドもなく、黙って特攻魂に火をつけて、ただもう我武者羅に全力でアタックするだけ。でも、音楽活動に関しては違う。音楽人としては自信も売りもあるんだから、果報を寝て待つというのもたまにはアリなんじゃないか?と思うのだが、待てど暮らせど誰も来ず、起こしてもらえず、結局自分で起きて、シャワーを浴びて歯を磨いて、出掛けねばならんのである。
おかしくないか?
たまには俺も「どうしよっかなぁ〜」みたいなことを言ってみたいものである。そして、俺が首を縦に振ることによって歓喜する人の顔を見てみたいものである。
佐野元春とXmas
昨日、Zeppなんばで元春さんの『ロッキンクリスマス2018』を観てきた。
途中、休憩20分を挟んだ2部構成。中盤では「これから数曲スローソングを演るんで、良かったら座って聴いて下さい」と元春さん。前回とは違ってバラードも聴けた。涙が出そうになって困った。でも、その後すぐにロックンロールナンバーに戻って、会場総立ち。手を叩き過ぎて両手が真っ赤になった。
佐野元春。間違いなく日本最高のロックアーティスト。80年代から現在に至るまで、ファンが困惑するほど、時に置き去りにしながら、あらゆるジャンルに挑戦し続けて、素晴らしい曲を山ほど作ってきた事の強みと懐の深さがセットリストに表れていた。
佐野元春って難しい人だと思っていた。でも、聴けば聴くほど、知れば知るほど、ユーモアに溢れた可愛らしい人なんだということを実感して、深みにはまっていく。
ライヴの最後を飾ったのは『インディビジュアリスト』という曲で、速いスカ。恐ろしくノリの良い曲で会場全体が跳ねた。観ていて「スカだけはアコギ一本じゃ無理だな…」と思ったのだが、すぐに「だからこそ、やってやる!」と思った。
ンチャ!ンチャ!ンチャ!ンチャ!ンチャ!ンチャ!ンチャ!
元春さん!素晴らしいライヴをありがとう!
良いクリスマスを!!
河馬ー
音楽をやってるつもりが音を鳴らしているだけで終わっている人が多いように、カバーをやってるつもりがただのコピー崩れで終わってしまっている人が多い。
他人が作った曲を演る場合に、自分のものにしようという創意工夫が感じられないというのはコピーだ。といって、俺は別にコピーを馬鹿にするつもりはない。コピーってものすごく技術の要ること。俺が疑問に思うのは、コピーするだけの技術がなくて、コピー崩れに終わっているものを、「本物に比べて圧倒的に劣っている」と捉えずに、「別物」と捉えてカバーを名乗っている人が多過ぎるという事だ。ただ下手なだけ。下手過ぎて本物とは似ても似つかないという事を逆手にとってカバーを名乗っている人が多過ぎる。
コピーは職人が得意とすること。カバーは芸術家が得意とすること。職人志望なら職人志望だとハッキリ言えばいいのに、それはそれでカッコ良いのに、それをしてしまうと常に自分の下手さ加減と向き合わねばならないし、それを周りに晒すことにもなるからできない。でも、職人は「自分は下手だ」と言えるかどうかというところから始まるのではないか?言えれば伸びるし、言えなければ伸びない。職人として伸びることを諦めた途端に都合よく芸術家を気取って「カバー」を口にするのは、職人に対しても芸術家に対しても失礼な事だと思う。
カバーが聞いて呆れる。
ただのコピー崩れじゃないか。
音楽
同感だ。全くもって同感だ。でも、俺が言うとしたら、少し短くなって、こうなると思う。
「MUSICというのはスパッと切ったら血が出るものだ」
アーティストが10人いたとして、「MUSIC」ができているのは僅かに1人。他の9人が「MUSIC」と呼んでいるのは「SOUND」。ただの音だと思う。
血の通っていない人間がいないように血の通っていない音楽なんて無い。スパッと切って血が出ない音楽はそもそも音楽ではない。血の通っている音楽を本物の音楽と呼ぶのなら、音楽は音楽である以上常に本物で、偽物の音楽なんて無い。本物だけがある。ただそこに「好き嫌い」はある。
どいつもこいつもバカのひとつ覚えみたいに「音を楽しむと書いて音楽。だから、楽しまなきゃ」みたいな事を言ってるけど、とんだ見当違い。
「音楽」という言葉の本当の意味は、「音に感情を持たせたもの」だと思う。だから本当は「音感」でも良かったのだが、音感は「絶対音感」という言葉があるように「音を感じる」という意味合いがあり、音感無くして音楽は語れないので、音楽が音感を差し置いて「音感」を名乗る事は出来なかったのだろう。さりとて、「音怒」や「音哀」だと、パンクか演歌かみたいな事になってしまうし、「音喜」だと語呂が、音感が悪いので、「音楽」に終着したんじゃないかと思う。
音に感情を持たせる。どう考えても、誰にでも出来る事ではない。
音楽ができるのはほんのひと握りの、選ばれた人たちだけだと思う。