前回のライヴを目撃してくれた人達ならきっと、俺と一緒に首を傾げてくれると思うのだが、世の中には、「和田怜士は主たる表現の場をライヴからYouTubeに移した」などと勘違いしている奴がいるらしい。
何と読みの浅い…情けないことである。
あくまでライヴの為の映像だ。一人でも多くの人に自分の音楽に興味を持って欲しい。そして、ライヴを観に来て欲しい。その為の援護射撃として映像があるーってことぐらい、ちょっと考えりゃわかるだろう。
はっきり言って、俺はライヴ信奉者じゃない。例えば、会場に10人のお客さんがいるとして、そこで納得のいくライヴができたとしても、それに気付いてくれるのはせいぜい2人くらいで、その2人ですら、次のライヴに来てくれる可能性は20%に満たないと思う。でも、もしその2人がライヴの後に映像を観てくれて、観ることでなんとなく曲を覚えて、「やっぱり良い!」と言って次のライヴを観に来てくれたら、そのまた次のライヴに2人が足を運んでくれる可能性は50%を超えてくると思う。
目当てのアーティストがライヴをやるというので、その日の他出演者の名前を見たら「和田怜士」とある。「和田怜士?どんな奴なんだろう?」と何気なくYouTubeを開いて、和田怜士」を検索してみたら、それなりに作り込まれた映像がいくつか出てきて観る。その時はピンと来なくても、これが予習になっていて、当日、実際にライヴを観て、これが復習になる。ライヴで初めて触れるのと、ライヴ以前に映像という形で触れておくのとでは、吸収率に大きな違いが出てくるはず。
つまり、ライヴ以外にもう一つ入口を作っておくということ。順序はどうでもいい。ライヴが予習で映像が復習でもいいし、映像が予習でライヴが復習でもいい。とにかく、この予習復習の流れを作るために映像は凄く効果的だと思うし、そんなこんなでいよいよもって本格的に自分の音楽を気に入ってくれた人がいたとして、その人が友達をライヴに誘う時にも映像は役に立つと思う。「この人が今度ライヴやるんやけど一緒に行かへん?」と言って映像を見せることができるんだから。
ライヴ信奉者は、ライヴやってりゃなんとかなると思っているが、劇団をやっている俺の知人に言わせてみればこうなる。「音楽やってる人ってライヴやり過ぎじゃないですか?ライヴやる前に、お客さん呼ぶために、ライヴ以外にやるべきことって他にないんでしょうか?」その通りだと思う。
「良いライヴやってりゃ集客なんて後から付いてくる」という言葉の響きは「愛さえあれば金はいらない」に近いものがある。「良いライヴ」と「集客」を分けて語っている時点でおかしい。本当は、良いライヴというのは、お客さんの存在抜きには語れないんじゃないか?お客さんを煽って、お客さんに煽られて、それで初めて「良いライヴ」と言えるものができるのではないか?
美味いラーメン屋にはお客さんが来る。不味いラーメン屋にはお客さんが来ない。店の外からお客さんがたくさん入っているのを見てさらにお客さんが来る。店の外から閑古鳥が鳴いているのを見てさらにお客さんが来ない。周りにたくさんお客さんがいることで美味いラーメンがさらに美味く感じる。暇を持て余している店主に切なく見つめられながら食べる不味いラーメンはさらに不味く感じる。
俺は、お客さんの立場に立って箱を選ぶようになったし、ネット上での告知や、自分でデザインしたフライヤーの配布はもちろんのこと、ライヴの後に声を掛けてきてくれた人の為に音源も用意してる。そして、ライヴを観に来てくれる人と、観に来てくれた人に向けた映像もいくつか揃えてある。他にもやれることがあれば教えて欲しい。
自分が楽しけりゃそれでいい?そりゃそうだ。でも俺はお客さんがいないと楽しくない。だから、その為に努力する。「音楽の力を信じてる」とか何とか都合のいいことを抜かしてびた一文努力しない人間にとやかく言われる筋合いはない。
努力不足だからお客さんが来ない。ただそれだけのこと。実にくだらない苛立ち。それを同じような立場にある俺にぶつけてどうする。
珍しく才能ある人だと思ってたのに、ただのナルシストだった。残念だ。
くたばりやがれ。