疑問と提案

そう、俺は本当に音がわからない。メロディーについては誰よりもわかっているつもりだけど、音がわからない。何と何を組み合わせればいいのか、何をどこにどれだけ盛ればいいのか、あるいは削ればいいのか、さっぱりわからない。でも、音について一つだけ、以前から声を大にして言いたかったことがある。

「狭いライブハウスでドラムの音をスピーカーから出す必要あるか?」ということだ。生音で十分後ろまで届くのに、「そうすることになってるからそうしてる」という惰性に過ぎないんじゃないか?ということだ。

ドラムって、生音が一番カッコいい。リハの時、PAが絡む前のドラムの音ってめちゃくちゃカッコいい。箱鳴りしてて奥行きがあって、ドラマーごとの音の違いもよくわかる。それが、スピーカーを通すや台無しになる。誰が叩いても同じ音。ドラム本来の音ではなくなってしまう。やたらと高音が立ったベチッ!っていう感じの、奥行きのない、耳に痛い音になってしまう。

ドラムはただでさえ音のデカい楽器。本当にスピーカーを通す必要があるのかないのかを考えるべきだ。箱の大きさから言って後ろまで音が届かないようならスピーカーを通す必要がある。でも、その音量は必要の範囲内に留めるべきで、そうやって、可能な限り生音を損なわないように配慮したドラムの音を後ろまで響かせることができたら、このドラムの音量を軸にして全体のバランスを作っていけばいい。そうすれば、なんだかよくわからない音の塊で耳をやられることもなくなるだろうし、個々の音を聴き分けて楽しめるようにもなるし、ボーカルの声が全く聞き取れないという、昨今では日常茶飯事と化したアホな現象もだいぶ防げるはずだ。

だいたい、スタジオで練習してる時、ドラムの音、スピーカーから出してるか?それから、ライブハウスの音を外から聴くと大抵ドラムの音しか聞こえないけど、あれは本当にあれで良いのか?あれは本当に「そういうもの」で済まして良いものなのか?実はめちゃくちゃな間違いじゃないのか?


棚からケーキ

https://m.soundcloud.com/hidarinohi/6g5u1js2drnd

アイカワラズミー、ヒダリ、ヨハヒフでお馴染みの奇才、太田ヒロシ君が俺の「果物をてんこ盛った巨大なケーキ」をカバーしてくれた。

太田君が得意とするパワーポップな仕上がりで、俺の書いた小説を太田君が映画化してくれたーそんな感覚があった。

そう、今回、太田君がカバーしてくれたものを聴いて思ったのは、俺が今、声とギターだけでやってる音楽は小説なんだということ。たまに「バンドで聴いてみたい」って言ってくれる人があるけど、あれはつまり「映画化してくれ」っていうことなんだな。活字だけではなく、映像を見せてくれと。

でも、俺はあくまで小説家で、映画監督としての才能はないんですよ。線(メロディー)は描けても色(音)が塗れない。引き算は得意だけど足し算が苦手。

あらためて、俺はバンドに向いてないなと思った。


心頭滅却すれど火はなお熱し

頭を過信するなかれーというのが俺の信条。

「考える」って、人間が思うほど大したことない。頭から出てきたものなんて大したことない。人が「心」と呼んでいるもの。あれこそ大事だと思っている。これが、音楽をやってきて、曲を書いてきて学んだ最大のこと。

俺は、頭から曲を捻り出すことを「作る」と呼んでいる。作った曲は、作った時の感覚や記憶が残るけど、心に浮かんだり、閃いたりして生まれた曲は、生まれた時の感覚や記憶が驚くほど残らない。そして、作った曲がボツになる可能性は高いけど、生まれた曲がボツになる可能性は限りなくゼロに近い。だから、「頭じゃない」となる。「心から愛してる」とは言うけど、「頭から愛してる」とは言わないし。

ところで、認知症というのは認知力の低下を言うんだから頭の問題だ。裏を返せば、心は生きているということになる。ここに俺の信条をそっくりそのまま当てはめると、「心が生きてるんだからギリギリセーフでしょ」ってなことになりそうなものだが実際は違う。人間、頭が駄目になると恐ろしく駄目になる。本当に駄目になる。駄目にはなるけど、やはり、どうにもこうにも心は生きている。それは、どんなに深い認知症の人でも同じことが言えて、いかに行動や発言の形が崩壊していても、その人の人となりは残る。たかがオブラート。されどオブラート。良い人には良い人の、嫌な奴には嫌な奴の輪郭が変わらず残る。

人間、頭が駄目になっても生きていける。心さえ生きていればなんとか生きていける。でも、心が駄目になるようなことがあれば、たとえ頭が生きていても生きていけないと思う…っていうか、心が駄目で頭だけが生きているなんてことはありえない。

料理人が包丁を失うのと、包丁が料理人を失うのとでは、意味が違う。

と、この記事を見れば一目瞭然。俺は非常に頭でっかちな人間である(物理的にもデカい。でも、写真の人よりマシ)。なので、少しでも油断してると頭が出しゃばってきて、心に覆い被さって、心の邪魔をする。だから、酒を飲むか、ロックを聴くか、酒を飲みながらロックを聴くかして、頭に「引っ込め!」と言う。引っ込ませるだけでは飽き足らず、完全に頭から解放されたいと思ったら、これはもう、ギターを抱えてステージに上がるしかないのである。


レア中のレア中のレア

現在、2種の缶バッジを制作中。

来週末、納品予定。

基本的には作ること自体を楽しんでいて、海賊ライチのスタッフ(Dr.F、シスター・マロン、本田純正)に日頃の感謝を込めて受け取ってもらうつもりなのだが、5セットからの受注だったので、2セット余る。

欲しい人がいたらあげるから、どんな形でも良いので名乗り出て下さい。

先着2名。2月25日(日)〆切


入院せずに済んだ雨女

愛器ギブリン。

一箇所、不具合があり、楽器屋で修理してもらうことにした。

名前こそギブリンだが、ゆうてもギブソンなので、結構お金かかるんやろな…とビクビクしてたら僅か10分、500円で復活。ついでにネックの反りなども診てもらったのだが、全くもって問題ないとのこと。

さらについでに、ピックを10枚と弦を3パック購入。弦は、前回のライヴの時、ガツンと叩いた後の返りにモタつきがあるような感覚があったので、太いものを選んだ。

今のところライヴの予定はない。でも、その前にやるべきことがたくさんある。


あたらしいかたち

「primitive」という英単語が好きだ。プリミティブ。音が好き。つい最近まで意味は知らなかった。ただひたすらに音が好きだったので、たまに無意識のうちに呟いたりしていた。

意味を調べてみたら、「未開発。未発達。幼稚で野蛮ーといった意味合いに於ける「原始的な」「根源的な」「素朴な」の意。通常、良い意味で使われる単語ではない」とあった。それから、コンピューター用語で「プリミティブ型」というのは、「複合型でない、2つ以上のものの組み合わせからできていない基本型のこと」とあった。

ところで、俺の音楽は「弾き語り」ではない。当然ながら「フォーク」でもない。ロックだ。でも、既存の◯◯ロックという呼び名はどれも当てはまらない。多種多様なロックというジャンルではあるが、これまでのロックは全てバンドという形態ありき。漫才やコントはあっても落語が無いーそれがロックだったのだ。

じゃ、俺の音楽は一体何と呼べばいいんだ?

…。

あ、そっか!自分で勝手に作っちゃえばいいんだ!

というわけで、「吾輩はロックである。名前はまだ無い。」と呟き続けてきた俺の音楽に遂に名前が付いた。

『プリミティブ・ロック』だ。

今度スタジオを予約する時、ジャンルを記入する欄に「プリミティブ・ロック」って、枠を大きくはみ出して書いてこます!


棚から紙吹雪

当分、ライヴの予定はない。

せめて動画を…と思っていたら棚から紙吹雪。

マロンさんが撮ってくれていた。

撮られているという自覚がないだけに、リアルな仕上がりで気に入っている。

映像から察するに…レノンが来ていた。