パンドラの箱

「曲を書くのは好きだ。楽しい。でも、詞を書くのは嫌いだ。面倒くせぇ。誰か代わりに書いてくんねえかなといつも思う」と昔、某雑誌のインタヴューに応えてノエル兄貴が言っていたのだが、まったくもって同感だ。私も、曲を書くのは好きだが、詞を書くのは嫌いだ。文章を書くのは3度のメシより好きだし、詞だって、イメージを散らしたような「詩」であれば喜んで書くが、「歌詞」となると話は別。

私は、メロディーを先に書いて、そこに言葉を乗せていくから、言葉数をメロディーに合わせないといけないし、韻を踏まないと気が済まないし、言葉の絡み方に何かしらマジックが起こらないと納得がいかないし、そんなこんなで書き始めたら書き始めたでめちゃくちゃ没頭するのだが、没頭し過ぎてめちゃくちゃ疲れるし、没頭しようがしまいが、めちゃくちゃ時間がかかることに変わりはないのである。
曲自体は、メロディーさえ閃けば1日で出来上がるし、相当冴えてる場合にはそれこそ10分で書けるが、詞はそうはいかない。1週間で書き上げられたら万々歳。1ヶ月で書き上げられたら万歳。私の場合、1本の詞を納得のいく形まで書き上げるのに、改良に改良を重ねた挙句、5年かかったことさえあるのである。メロディーを崩さないよう細心の注意を払いつつ言葉を、それも日本語を、組み立てていくというのは私にとって、なかなかの苦行であり修行なのである。

二者択一。メロディーを優先するのか、言葉を優先するのか。メロディーを優先すると言葉に制限が出てくるし、言葉を優先するとメロディーに制限が出てくる。両方とも優先して、両方とも自由などという風にはいかない。私の場合はやはり、今後もメロディー優先で、メロディーに言葉を添わせていく形になると思うのだか、これは、逆に言えば、私がある日突然言葉を優先して、言葉にメロディーを添わせる形で曲を作った場合に、自分でもビックリするような、めちゃくちゃ面白いものが出てくるかも⁉というパンドラの箱的なものをギリギリまで開けずに後々の楽しみとして取っておこうという思惑の表れなのかもしれない。

ワンパターンって悪くない。一つのパターンを頑なに守れば守るほど、それを豪快に破壊することへの楽しみが増すし、破壊することで新たに生まれてくるものへの期待も高まるというものだ。

生きていて、本当ににっちもさっちもいかなくなったら、「南無三!」と叫んで、自分の中のワンパターンを豪快に破壊してみてはいかがでしょうか?何が飛び出すのかはやってみないとわからないし、不安だけど、少なくとも何か起こりそうでしょ?
ズルズルと沈み落ちていくのに任せるよりはずっと宜しいかと存じます。


4件のコメント

  1. 僕は今の仕事に関してはワンパターンでいければいいと思います。
    いつも通りの仕事で誰も変わりなく過ごせれば嬉しいです(^^;)

    サプライズはあんまりいらないかな

    僕の人生のテーマは気楽なので(‘∀`)

  2. 僕も、ワンパターンで押せる間は押し切ってやればいいと思っています。ただ、そこに窮屈さやつまらなさが出てきた時には、微調整みたいなヌルいことをするんじゃなくて、後先の事を考えない、「見る前に跳べ」的な、子供っぽい破壊あるのみだと思っています。それから、破壊し尽くした後にまた元のパターンに戻るーこれは全然アリだと思っています。同じ場所に戻ったつもりでも、同じ場所ではなくなってるはずだからです。

    キムラさんならよくご存知。笑いは「緊張と緩和」の繰り返しで展開するものですよね?同様に、芸術は「創造と破壊」の連続で前進するものみたいです。だから、僕がもし今バレンティンなら、一打逆転のチャンスにバントをすると思います(笑)

  3. 緊張と緩和ですねぇー

    お通夜の面白さって正に緊張と緩和ですから

    悲しいから逆に笑いが生まれる

    笑いと悲劇って表裏一体なんですよねー

  4. 子供の頃、ある親戚のお葬式に参列しました。棺桶の側で、どっかの大人に「お顔を見てあげてね」と言われたので、棺桶の小窓から恐る恐る中を覗き込むと、鼻にティッシュを詰めてちょっと笑ろてるガリッガリの全っ然知らんおじいちゃんの顔があって、親父が酒の肴によく食べてるめざしが頭に浮かんで、込み上げてくる笑いを隠すために俯いて必死で泣いているフリをしました。大人がみんな俯いて肩を揺らしてるのはそういうことかと思いました。
    近々、伊丹十三の「お葬式」をもう一度観ようと思っております。

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