ありがとうを考える

1.介護施設で働いていた時、介護度って「ありがとう」を口にする頻度で決められるんじゃないか?と思ったことがある。介護度の高い人ほど「ありがとう」を言わないように感じたからだ。でも、これは仕方のないことなのかもしれない。介助なしには生きていけない人に、介助されるたびに「ありがとう」と言えなんて、そんなおかしな話はないし、そうやって「ありがとう」を言わなくなるうちに「ありがとう」という言葉の意味が分からなくなったとしても何ら不思議ではない。言葉の廃用症候群ってあると思う。

2.ある施設では役職に就かせてもらった。任命された時、上司である館長がこう言った。「人の上に立って、人を上手に動かそうと思うのなら、大事なことは一つだけ。しっかり「ありがとう」と言う。それだけ。少し大袈裟でもいいから「ありがとう」とハッキリ言いなさい。そうすれば人はついてくるから」

3.人から物を貰うことが多い人と、人から物を貰うことがほとんどない人との違いは、貰った時に嬉々として「ありがとう」と言えるかどうかという、ただそれだけの違い。喜んでくれる人には色々とあげたくなるけど、大して喜んでくれなかったり、貰っておきながら貰ったものについて不満を垂れる人には何もあげたくなくなる。俺はいつも思う。世の中には「貰い上手」と「貰い下手」がいる。

4.人に命をくれるのが神様だとすれば、神様だって人から「ありがとう」と言ってもらいたいに決まっている。「ありがとう」と言ってくれる人のことを厚遇するに決まっている。「ありがとう」が言える人は、貰ったものを抱えて歩いている。言えない人は引きずって歩いている。

5.人を殺めることを「人の命を奪う」などと言うが、随分とおかしな言葉だと思う。命は奪えない。「奪う」というのは自分のものにするということだろう。引ったくり的な。もし奪えるのなら、不治の病を患って余命3日とか言われたら俺、見境なく奪いに行くよ。でも、何人殺めたとて俺は3日で死ぬわけだ。そう考えると、戦争というのはあれは、人の命を奪えるものと勘違いした人が異常発生した時に発生する赤潮的な現象なんじゃないか?人を殺めたら、殺められた人の命は触れることすらできず神様の元に戻るだけで、殺めた人のものになるわけではない。本当は、地位や名誉や財産だって、奪えるものではないのかもしれない。最終的には奪った以上に没収されるわけだから。

6.俺、キリスト教徒じゃないけど聖書の中に好きな言葉がある。「持つ者はさらに持ち、持たざる者はさらに失う」文章はちょっと違うかもしれないけど、意味合い的にはこんな言葉だった。自分が「持つ者」なのか「持たざる者」なのかは自分自身の判断だと思う。そして、持つ者にあって持たざる者にないのは感謝の気持ち、「ありがとう」だと思う。「満足したら終わり」確かにそうだし、「貪欲」って悪い言葉じゃない。でも、それとは別の次元で、さらに得ようと思えば、さらに幸せになろうと思えば、足るを知って「ありがとう」を口にすることが一番の近道なのかもしれない。少し大袈裟でも構わないから「ありがとう」だ。そういえば俺、ライブの時、一曲歌い終えるたびに「ありがとう」って言う。あれはただ、お客さんが拍手のタイミングに困るのを避けたいがためなんだけど、これまた別の次元で考えたら、ものすごく意味のあることなのかもしれない。


コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。