ビッグバン・ブルース

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大阪で暮らしていた頃、その末期、外は緊張の連続で、内は窮屈以外の何物でもなかった。

何かしら爆発したいが、爆発の仕方がわからなかった。しかし、今にして思えば、「仕方」を考える余裕のある内は、爆発など起こり得ない。仕方を考える余裕がなくなった時に、爆発は起こる。「仕方がない」とはまさにこのこと。

爆発に理屈なんて無い。だから、言葉を求められても困る。上手く説明できるくらいなら、そもそも、爆発なんてしないし、上手く説明できる爆発なんて爆発ではない。特に、言葉を不得手とする人間にとっては、訴えの全てを、前後不覚な行動に託すより他ない。

古代中国の兵法に「追い詰められた敵、追うべからず」というのがある。追い詰められた人間の爆発力というのは侮れないもので、度を越えて「追及」すれば、それこそ、「窮鼠猫を噛む」的なことになる。一般庶民の日常生活に於いて、そこまで人を追い詰める必要がどこにあるのだろうか?鼠に噛まれたら、それはもう完全に自業自得だ。

笑いの世界では、笑いの基本的な仕組みは「緊張と緩和」にあるという。ピンと張り詰めた緊張の糸を一気に緩和させた時に爆発的な笑いが起こる。思うに、何事も、緩和のために緊張があるかのような状況こそが好ましいのではなかろうか。緊張と緩和が交互に来て、リズムを刻むような状況こそが望ましいのではなかろうか。緩和無く、ただひたすらに緊張だけを押し付けるというのでは、能率も忠誠心もへったくれもありゃしない。

追い詰められた人間がいる。
追い詰めた人間がいる。
追い詰められて爆発した人間にも多大な責任はあるが、そこまで追い詰めた人間にも、追い詰められた人間に勝るとも劣らない責任があると思う。

緊張が沸点に達して爆発するというのは、科学的にも、ごくごく自然なこと。もし、爆発が起こらなかったとしたら、それこそ不自然の極み。
ビッグバン無くして宇宙は生まれなかったんだし、新しい物事はいつも、大きな爆発の後に生まれるものなのでは?

そう考えるより、仕方ないよ。


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