「頭の回転」という言葉には、速度の問題以外に、角度の問題もあると思う。
私は、角度についてはちょっと自信がある。なかなか面白い傾きがあると思っている。が、いかんせん速度に自信がない。
遅い。この角度、傾きに、スピードが伴えばもう少し良い感じになると思うんだけど、角度の面白さだけではどうにもならん日々がある。
「ああああ…角度は良いんですけどねえ〜。ちょっとずつタイミングが遅れてるからホームランにならないんですよねぇ〜」という解説を、プロ野球を観ていてよく耳にする。
「頭の回転」という言葉には、速度の問題以外に、角度の問題もあると思う。
私は、角度についてはちょっと自信がある。なかなか面白い傾きがあると思っている。が、いかんせん速度に自信がない。
遅い。この角度、傾きに、スピードが伴えばもう少し良い感じになると思うんだけど、角度の面白さだけではどうにもならん日々がある。
「ああああ…角度は良いんですけどねえ〜。ちょっとずつタイミングが遅れてるからホームランにならないんですよねぇ〜」という解説を、プロ野球を観ていてよく耳にする。
私が「健常者」なる言葉を知ったのは、今を遡ること6年前、ヘルパーの資格を取るべく学校へ通い始めた時のことであった。
身体的にであれ、精神的にであれ、障害を持つ人のことを「障害者」と呼ぶのに対して、障害がない人のことを「健常者」と呼ぶーということを遅ればせながら知ったのであるが、私がこの言葉を初めて耳にした瞬間思ったのは、「どこに健常者がいるんだろう」ということだった。
障害のない人間なんていない。誰をどう贔屓目に見てもいない。障害のない人間を見つけるというのは、ツチノコを見つけるのと同じくらい難しいことだと、今でも素で、思っている。
私は一人っ子なので、一つのものを他人と共有するということがあまり好きではない。アンタのものはアンタのもの。俺のものは俺のものーというのが良い。これをワガママだと言う人もあるがちょっと待て。私はなにもジャイアンみたいに「俺のものは俺のもの。お前のものは俺のもの」などと言っておるわけではない。アンタのものはアンタのものだと断言、尊重しているし、尊重してはおるもののアンタのものには一切興味がなくて指一本ふれないんだから、これは、ワガママではない。
私はあくまで私のものが欲しい。この気持ちは子供の頃から変わらなくて、だから、天賦の才を迸らせて曲を作ったり、親父の血を頼みに絵を描いたり、某自費出版社に「不条理の極致」と言わしめる奇怪な短編小説を書いたりするようになった。つまり、私が作るものは、私にしか生み出せない私の中にあるものの縮図なんだから、他の誰のものでもない、完全無欠に私のものだ!ーというわけである。
ところが最近、な~んにも作れてない自分がいる。ここに記事を寄せることさえ困難な有様である。でも、こんなことでは駄目だ。私は私でしかないんだから私らしく、私はあくまで私のものが、私だけのものが欲しいんだというかつての熱き渇望を取り戻さねばならない。
こう見えて、それなりに焦っている。
哲学の知恵の輪は解くことが目的ではございません。ただひたすらにガチャガチャガチャガチャやってるのが楽しいのです。ガチャガチャガチャガチャやってる内はこの知恵の輪が錆びることはございません。もしかしたら、ガチャガチャガチャガチャやることの真の目的は、知恵の輪を錆びさせないことにあるのかもしれません。
最近、私、ガチャガチャガチャガチャやってません。知恵の輪が錆び始めていても不思議ではありません。
悲しいことです。
私が好きなら、相手も私のことが好きだ。
私が嫌いなら、相手も私のことが嫌いだ。
常時、自分発信にして単純明快。単純明快なものはせっかく単純明快なんだから、変に手を加えたりせず、そのまま単純明快なまま置いておくべきだと思う。
人間関係ー基本的には、ただそこに鏡があるだけのことなのではなかろうか。