十人十色、十人十色と言っておきながら、人の生きる環境については十人二色とか三色とか言ってる世の中の器の小ささが目に余る。
自分が自分の環境を堂々と生きる。それでOK牧場。
人はみんな、各々の人生の主人公なんだから、一人残らず「君主」だ。
君主は、自分の身体の全細胞の上に君臨していて、そこにひゃんぱなくデカい責任がある。また、君主の周りにあって、君主の支えとなる人たちは(彼らもまた、各々の人生の中では君主なんだけれども)「将」であり「師」なんだから、常に人を見て、必要とあらば自分の側に引き寄せる努力を怠るべきではないと思う。私は、これだけは怠りなくやってきたと勝手に自負している。
これは私が男だからか、人生を戦いの連続、群雄割拠の戦場だと捉えると、胸躍るものがなくはない。なんだかんだいって、いつだって巻き返せるような気がしないでもないし、たとえ万事休することがあったとしても、いつもどこかに勝機的なものを見つけることができると思えなくもない。
何は無くとも、私は人に恵まれている。人にだけは恵まれている。これは、これだけは胸を張って自慢できる。私自身は大したことないから、私自身については全くもって自慢できないが、私は、私の周りにいる人たちについては胸を張って自慢できる。だから、滅入りに滅入っても不思議と踏ん張れるし、まだまだ戦える。
誰が何と言おうと、親父の胸中にはやはり、芸術家として志半ばに終わる無念があったと思う。死んで、病苦から解放されることへの喜びに似た感情はあったとしても、芸術家としてはやはり、無念でしかなかったと思う。そんな、父親である前に芸術家だった人間の最期を真近で見ておきながら、何も感じるものがなかったとしたら、いや、さすがにそれはないな…たとえ大きく感じるものがあったとしても、感じたものを具体的に自分の生き方に反映させるということができなければ、息子である前に芸術家の末端としてあの人と接してきた私という人間は駄目だと思う。
他人に褒めてもらうにはどうすれば良いのかーそんなものはわかり切っている。でも、他人に褒めてもらったってしょうがない。自分自身に褒めてもらう為にはどうすれば良いのかを、そろそろちゃんと「最優先に」考えるべきだ。
他人の目を気にして、他人のお褒めに預かるべく動いた結果、他人が向ける矛先からは逃れられたものの、ふと気が付くと、自分自身の矛先が自分自身の眉間に突き付けられていて、「お前は本当にそれで良いのか?」という声が頭の中でとぐろを巻いて、進退極まって、あの時、あのタイミングで潔く腹を括ることのできなかった自分を呪って…といった失敗を何度繰り返せば気が済むのか一憩さんよ。