ある意味、人は乞食じゃないと駄目だと思う。
食いもんを乞う姿勢。人間、「食う」こと抜きには生きていけない。
よりよい生き方を乞う。よりよい言葉を乞う。
ある意味、人は乞食じゃないと駄目だと思う。
ある意味、人は乞食じゃないと駄目だと思う。
食いもんを乞う姿勢。人間、「食う」こと抜きには生きていけない。
よりよい生き方を乞う。よりよい言葉を乞う。
ある意味、人は乞食じゃないと駄目だと思う。
人生色々あって、今日は今日で色々あって。
今、この時間、カエラの「butterfly」を繰り返し繰り返し聴いているのだが、この曲は本当に…。
メロディや歌詞以上に、気違い染みたピアノの音が涙を誘う。
死ぬほどいい曲だ。
薔薇に棘があるのと同じくらい自然な形として、言葉というものにはそもそも、棘があるんだと思う。
花瓶に挿してある薔薇を眺めた場合に棘を目の当たりにするように、もし、言葉を人間から分離させて眺めることができたら、必ず、言葉の軸の部分に棘があるのを見つけることになると思う。そして、この言葉の棘を取り除く手段として「ユーモア」があるんだと思う。
ユーモアは、言葉の棘で人を傷つけたくないと思う優しさの中に生まれて、ある程度人生経験を経た人間の頭の切れによって研ぎ澄まされるものだと思う。
人間各個人の知性と優しさは、言葉にユーモアがあるかどうか、そして、そのユーモア自体の質を見れば、だいたい掴めるんじゃないかと思う。
いい歳をして、言葉にユーモアを感じさせない人間は駄目だ。言葉の棘で、知らず知らずのうちに人を傷つけてばかりいる。
もし私が「マツコ・デラックス可愛い」などと抜かしだしたら、千僧の自衛隊へ行って、戦車を一台借りてきて、戦車に乗って私の家へ来て、戦車を降りて、私を殴り殺してください。
いや、実際、デラックスやったらプリンとかシュークリームの方が可愛いもんな(笑)
ええ奴かどうか―これが全てだ。
男であろうが女であろうが社会性があろうがなかろうが、ええ奴は皆、片っ端から友達にしたい。
今日は、仕事から帰ってきてから、カエラのライヴDVDを繰り返し10回くらい観た。何故観たくなったのかというと、カエラの魅力的な「動き」以上に、カエラの笑顔が無性に見たくなったからである。
カエラが可愛いのは、顔の作りとかそんなんじゃなくて(って言ったって誰も信じてくれないだろうけど)、笑顔そのものの素直さにあるのである。
カエラの笑顔には、「歪み」が微塵もない。アヒル口?ふざけんな馬鹿野郎!と言いたくなるような笑顔が、カエラにはある。
ね?須磨ですまんの〜さんもそう思うよね。
全然大丈夫ですよ!冗談です冗談(笑)
大丈夫って誰でしたっけ?
しかしまあ、今年のサマソニは最高だったよね!何が良かったって、確かにヘレンも良かったけど、ピーティ・マイのリアポ・キャラマーは最高だったね!でも、今年のサマコニは残念ながら大雨だったんだよね。で、それが影響して総動員数が5人だったんだよね。でも楽しかったなあ。俺は行かなかったんだけどね。
今日も私は、職場の片隅でシンナーを扱っている。
頭の中では、カエラの「magic music」がエンドレスで流れていて、私は、蚊の鳴くような声で口ずさんでいたつもりだったのだが、どうやら時間の経過と共に声が大きくなってきていて、今や蠅が笑うような声になってきていて、時折肩でリズムをとったり、足を踏み鳴らしたりするようになってきていて、このままいくと終いには地声でキリキリと歌いあげだして、サマソニで観たカエラばりに踊りだすのではないかと思われるがしかし、私は決してラリり始めているわけではない。その証拠に、私は今ここで、カエラのあの有名なデビューシングル曲のタイトルを一字たりとも間違えることなく言うことができるのである。
「ラリラ・ラリハ」だよね。あの曲のタイトルはねっ!で、歌ってるのは確か西川ヘレンだったよねっ!
ヘレン最高っ!