表現者の破棄義務

人間にとって、『排泄』という行為は恥ずかしいことで、これは、『食事』についても同じことが言えて、人間は無意識的に、「食べる」という行為を恥ずかしいことだと感じているようであるが、私の個人的見解でさらに言うと、人間は、『表現』という行為についても、恥ずかしいと感じるように出来ているらしいのである。
例えば、歌を歌う時に、腹式呼吸が出来ず、なかなか大きな声を出せない人がいるが、あれは完全に羞恥心の問題である。無意識下に、無意識下ではあるが強烈に、「恥ずかしい」と思う気持ちがあって、その影響を受けて、身体が萎縮してしまっているのである。

表現ということで言えば、この『ブログ』というものもまた表現で、したがって、当然の如くに羞恥心の問題が絡んでくるのであるが、先述の「歌」と同じように、ブログの、表現の、良し悪し、出来不出来、面白い面白くないは、この羞恥心に打ち克てるかどうかにかかっていると思われる。実際、私は、羞恥心の絡み付いている、いつまで経っても更新されない、当たり障りのないブログなど、読みたくもない。

このように、表現者にとって、羞恥心などというものは、無用の長物以外の何物でもないのであるが、私は、その点、大丈夫過ぎるくらいに大丈夫である。表現者として、まずクリアしておかねばならないハードルを、余裕で飛び越えてしまっている。言い換えれば、私は、表現するということに於いて、救い難く羞恥心に乏しい人間なのである。が、その一方で、普段、言いたいことを素直に言えているかと言うと、まったくもってそうではないので、なんだか、実にややこしい人間なのである。


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