ここまでで、私のブログも、『イッケイノウタ』時代のものを含めると、1231本目になる。そうして、今ふと気付いたのだが、私はきっと、今まで一度たりとも、「爽やか」という言葉を使っていないのではないかと思われる。使った覚えがないし、私は普段の生活に於いてもこの「爽やか」という言葉を、皮肉を込めた意味合い以外では使ったことがない。要するに、私はこの「爽やか」という言葉、感じを忌み嫌っていて、何故忌み嫌っているのかというと、私には全くもって縁の無い言葉だと思われるからで、じゃ何故縁の無い言葉だと思われるのかと言うと、私の中に、「「爽やか」と名の付くものは皆、私をハミ児にしよる。」という被害妄想が深く根付いているからだと思われる。
爽やかな音楽、爽やかな文学、爽やかな絵画、どれもこれも苦手である。爽やかなロック、爽やかなデカダン、爽やかなアールヌーボーなどという表現は間が抜けている。
もし、風通しの良い感じを「爽やか」と呼ぶのなら、私は、芸術は、風通しが悪く、人間の体臭が停滞、充満していて、それが何だかガスのようになってしまっていて、誤ってマッチなど擦ろうものなら、空間丸ごと爆発してしまいそうな、鬱屈とした感じを好む。私が、神戸新開地や大阪の新世界を変に好むのは、そういった理由に依るのかもしれない。町全体が、ちょっとした拍子に大爆発を起こしそうな、あの不穏な空気感がたまらなく好きだった。
一方、女性客目当ての店や施設は、めちゃくちゃ苦手である。風通しが良いはずなのに、私には窮屈以外の何物でもなく、息が詰まって、私自身が爆発しそうになる。
イタリア料理?フランス料理?冗談じゃない。こら、勝手にナイフとフォークを用意すな。箸を持て、箸を。ふざけるのもほどほどにしなさい。だいたい私を誰だと心得る。無類の王将好きにして、立呑屋愛好家。そして、串カツ屋フリークでもある。爽やかなイーガー、爽やかな安価、爽やかな二度漬け禁止などという表現は間が抜けている。
と、こうやって、「爽やか」ということについて述べていく中で、私はひとつの、とても重要なことに気が付いた。それは、私が愛する感じというのは、「爆発している」ものではなく、「爆発しそうなもの」だということだ。
何かえらいことが起ころうとしている。が、起こらない。でも、何かの蠢く音が確かに聞こえる。が、何も起こらない。というキリキリ感。
私は、いつの日か皆さんに、今もなお現在進行形でウ゛ォリュームを増し続けている我が短編集『リスパダール』をお目に掛けたい。あれは、そんなキリキリ感を楽しみたい人の為の作品なのです。