Monthly Archives: 4月 2011

才能

比較の視点をもって考えれば、私は、結構持っている方だと自負しているし、その辺の奴らには絶妙に負けない!と声を大にして言えるがしかし、基本的に、根本的に、抜本的に、これは比較で語るような問題ではないのである。

自分の中に飢餓感があれば、それはやはり飢餓しているのであって、自分の中に劣等感があれば、それはやはり劣っているのであって、きっとこれは、死ぬまで満たされたり、解決したりすることはないんだろうけれども、だからこそ、自分に与えられた時間の全てを賭ける価値があると思えてならないから、諦めるもクソもないのである。

私は、痩せても枯れても、非常にストイックな芸術観を持った画家の一人息子である。したがって、諦めるもクソも、はなっから私に選択肢などというものは用意されていないのである。

何がなんだかわからぬままに槍を持たされて、「突っ込め!」と言われたから、何がなんだかわからぬままに、「わあああー!」などと奇声を上げながら突っ込むだけのことである。ただ、それだけのことなのである。


阿仁真梨発信カミングアウト

あたしが一憩を猫的たらしめているんだろうと思います。
世に男性多しと言えども、一憩ほど自らの中の女性性の動きに敏感な男もいないのです。

ここでひとつ、断言いたしましょうか。実は、一憩自体の性質は多分にMなのですが、一憩の中にいるあたしの性質は、頭に「ド」の文字が付くかどうかは別として、いたってSなのです。なので、このバランスを上手くとれるかどうかということが、この先、一憩が楽に生きていけるかどうかということに深く関係してくるわけです。

一憩の最旧友が、一憩を猫だと言ったのは、その最旧友が、一憩の中からあたしを最大限に引き出す鍵みたいなものを持っているからです。その鍵というのは、ズバリ申し上げますと、彼の中の極めて犬寄りな、男性的性質のことです。
人間というものは、陰なオーラを出している人を相手にすると、不思議と陽な気分が沸き起こってきますし、その逆もまたしかりで、要するに、相手の座っている椅子は回避して、その反対方向にある椅子を探して、これに座ろうとしますが、一憩がその最旧友の前で極端に猫っぽく、救い難く我が儘になるというのは、それと同じ理屈なのです。

それにしても、一憩が犬目線ではなく、猫目線でものを見出したというのは、一憩にとって確実にプラスです。素晴らしい「気付き」です。もっとあたしを、猫的気質を、S性を全面に押し出していけば、きっと一憩の未来は明るく拓けてくると思います。

猫が自分を犬だと信じて疑わない様は、犬が自分を人間だと信じて疑わない様以上に間抜けです。

一憩が自らの猫気質にさらに目覚めて、同時に、世の中には意外と犬気質の人間が多いんだということに気付いていってくれることを切に祈り、またその為には、どんな助力をも惜しまないと決意している次第の、最近のあたし、阿仁真梨なのでした。


犬と猫と私と前世

〈犬〉犬は猫と比べると、飼い主の家の敷地内にもう一つ余計に、自らの家を所有してしまっている分、不自由である。

〈猫〉先日、爽やかに晴れ渡った朝、川の堤防を歩いていて私は見た。家と家との間に立てられた塀の上を、朝日に目を細めながらゆったりと歩いている猫の姿を。そうして、その猫が足を止め、頭上に垂れ掛かっている木の枝の先に鼻を伸ばして、枝と戯れ、枝が揺れるのを楽しみつつ、そこに咲いている花の匂いを嗅いでいる優雅な姿を。

〈私と前世〉猫は自由で、私は猫背で、さらに私には猫を彷彿とさせる八重歯が口腔内の上下左右にあり、以前にも申し上げた通り、我が最旧友の長年に渡る分析によれば、私は性格的にも極めて猫寄りだそうで、そういえば極端に「窮屈」ということを嫌うので、そんなこんなを踏まえて、私の前世は猫であったに違いないという確信を深めれば深めるほどに、私にとって犬という生き物は、確かに可愛いけれども、見ていて息の詰まる歩くドM、悲しい性を持って生まれた、窮屈な窮屈な生き物なのである。


あの夏の人生訓

「吸うな!吐け!吐いたら吸えるから!」

私は子供の頃(まあ、今でもそうだが…)、泳ぎが大の苦手で、夏休みになると、強制的に、学校の特別水泳教室に参加させられていたのであるが、上記の言葉はその時、クロールの息継ぎが覚束なかった(まあ、今でもそうだが…)私に向かって、教師が繰り返し投げ掛けた言葉なのであるが、今にして思えば、この言葉は馬鹿にできない。そっくりそのまま、純然たる人生訓であると思われる。

最近、巷では、『断捨離』なる言葉が流行していて、書店に行くとこの断捨離関連の本がズラリと並んでいるが、「断捨離」というのは元々、ヨガの思想から生まれた言葉で、要するに、「無用なものを躊躇なく捨てる勇気を持つことによって、自由になりましょう。」という思想で、これは、考えてみれば、上記の教師の言葉に直結する思想、人生訓であると思われる。

ひとつ物を持つと、ひとつ自由を失う。ひとつ物を手放すと、ひとつ自由を得る。
最近、私が極端に物欲に乏しくなったのは、私の無意識下でこの思想が大きく機能しているからだと思われる。例えば、今や私は、財布もチャリンコも出来ることなら持ちたくないし、したがって、車を所有するなんてのは、考えるだけでゾッとする、狂気の沙汰なのである。

欲しいもの、本当に欲しいものが今の私にもあるとすれば、これはもう「才能」以外にないなと思う。
才能を心から渇望する時、物というものは、視界を妨げる障害物でしかなく、また、行動範囲を著しく狭めるだけのお荷物でしかないらしいのである。

「吸うな!吐け!吐いたら吸えるから!」


ラークを買え

ゴールデン・バットやエコーやわかばを吸っている私を今まで散々馬鹿にしてきたような連中が状況が状況だとかなんとか都合良く抜かしながらじゃんじゃんじゃんじゃんゴールデン・バットやエコーやわかばを買いやがるからこちとら大いに迷惑している。

ラークを買え、ラークを!どこのコンビニでも売れ残ってるじゃねえか!ゴールデン・バットやエコーやわかばは貧乏臭くて嫌だったんじゃねえのか?
ラークを買え、ラークを!不味いクセに410円もするラークを買え!
まったく、冗談じゃないよ!


『歯車』より/芥川龍之介〜匿名様への返信にかえて

〈以下の文章は、芥川龍之介の『歯車』という作品に出てくる一節です。私はこのやりとりが大好きで、これを紙に書き写して、自分の部屋の壁に貼っております。〉

老人「如何ですか、この頃は?」

芥川「不相変神経ばかり苛々してね」

老人「それは薬では駄目ですよ。信者になる気はありませんか?」

芥川「若し僕でもなれるものなら…」

老人「何も難しいことはないのです。唯神を信じ、神の子、キリストを信じ、キリストの行った奇跡を信じさえすれば…」

芥川「悪魔を信じることは出来ますがね。…」

老人「ではなぜ神を信じないのです?若し影を信じるならば、光を信じずにはいられないでしょう?」

芥川「しかし光のない暗もあるでしょう」


回想録〜介護施設

綺麗な歳のとり方をしはって、だから、これだけ品のある老人になれはったんやろなあ〜。などと、ほのぼのと、感慨深く思わせてくれる老人も中にはいたはいたが、それはほんの一握りであって、大半は、「早よくたばれや!ボケ!」と思わざるを得ない、待てど暮らせどお迎えの来ない、悲しい老人ばかりであったと記憶している。

「だって、お年寄りって可愛いやん!」仕事の良くできる介護士に限って、口癖のように言っていたが、私は、その「可愛い」って表現、いかがなものかと、ずっと思っていた。
あんなもの、どう考えても可愛いかないし、「可愛い」などという表現は、どう考えても、失礼だろうとずっと思っていた。


表現者の破棄義務

人間にとって、『排泄』という行為は恥ずかしいことで、これは、『食事』についても同じことが言えて、人間は無意識的に、「食べる」という行為を恥ずかしいことだと感じているようであるが、私の個人的見解でさらに言うと、人間は、『表現』という行為についても、恥ずかしいと感じるように出来ているらしいのである。
例えば、歌を歌う時に、腹式呼吸が出来ず、なかなか大きな声を出せない人がいるが、あれは完全に羞恥心の問題である。無意識下に、無意識下ではあるが強烈に、「恥ずかしい」と思う気持ちがあって、その影響を受けて、身体が萎縮してしまっているのである。

表現ということで言えば、この『ブログ』というものもまた表現で、したがって、当然の如くに羞恥心の問題が絡んでくるのであるが、先述の「歌」と同じように、ブログの、表現の、良し悪し、出来不出来、面白い面白くないは、この羞恥心に打ち克てるかどうかにかかっていると思われる。実際、私は、羞恥心の絡み付いている、いつまで経っても更新されない、当たり障りのないブログなど、読みたくもない。

このように、表現者にとって、羞恥心などというものは、無用の長物以外の何物でもないのであるが、私は、その点、大丈夫過ぎるくらいに大丈夫である。表現者として、まずクリアしておかねばならないハードルを、余裕で飛び越えてしまっている。言い換えれば、私は、表現するということに於いて、救い難く羞恥心に乏しい人間なのである。が、その一方で、普段、言いたいことを素直に言えているかと言うと、まったくもってそうではないので、なんだか、実にややこしい人間なのである。


子供と神様

幼い子供に、数え切れないほどの積木を与えて、山を作らせる。そうして、ある程度積み上げたところで、今度は、これをめちゃくちゃに破壊させる。それから、「じゃ、もう一度、さっきと同じ高さの山を作ってくださ〜い!」と言って、もう一度山を作らせたら、最初の山よりも高い山が出来上がる確率が高いのか、低い山が出来上がる確率が高いのか。

もし、高い山が出来上がる確率が高いようであれば、我が人生にも、まだまだ期待が持てる。