例えば、誰かに何か物をあげて、その人がそれをめちゃくちゃ喜んでくれたら、次にもまた何かあげたくなるというのは人情でございまするな。
神様は、人間に命をくれた。で、それをめちゃくちゃ喜ぶ人と、当たり前だと思ってちっとも喜ばない人と、めちゃくちゃ迷惑がる人がいたとしたら、神様が次にまた何かをあげたくなるのは?…というごくごく単純なことなのではございますまいか?「ポジティブな言葉がポジティブな状況を呼ぶ」という言葉の原理は、そういうことなのではございますまいか?
人間は、その都度その都度、多くのものを持っているとも言えるし、ごくごく僅かなものしか持っていないとも言える。これは要するに解釈の問題で、今の私の場合は、まだまだ、ごくごく僅かなものしか持っていないと思っている。持っているものの数は同じでも、以前の私であれば、もう十分多くのものを持っていると捉えていたはずで、いくつかものを手に入れるとすぐに「もうこれ以上は持てん!」などと言って、「持つ」ことによって増していく重みへの恐怖心と、それを失ってしまうことへの恐怖心とにやられて、生きることへの貪欲さをいともたやすく放棄してしまっていた。で、終いには「死にたい」などと言い出した。
最近の私は、「人間、本当はもっともっと持てるんじゃないか?」と思っている。だから、私自身も、まだまだ色んなものを持てるはずだと思っている。
今、私が持っているものなんてのは、片手に収まる程度のものだと思っているし、もし、両手がいっぱいになってしまったら、その時はその時で、リュックか何かを持ってきて、そこへじゃんじゃんじゃんじゃんブチ込んで背負えばいいんだと思っている。
とにもかくにも、私はまだまだ持てる。もっともっと生きることに貪欲になって、もっともっと「生きてて嬉しい!」みたいな顔を晒して、もっともっと神様に気に入ってもらって、もっともっと色んなものを手に入れて、手に入れる度に嬉々とした表情をこれ見よがしに浮かべて、その表情を見た神様がまた嬉しくなって私に何か呉れて、両手がいっぱいになって身動きがとれなくなったらその時は、神様がリュック的なものをくれるだろうと思っている。
まだまだ持てるし、まだまだ食える。
まだまだ貪欲さが足りないし、まだまだ喜びの表現が下手クソだ。
満足したり、自分の許容力に限界を感じたりしたら、その時点から流れが止まって、濁って、重くなって、堕ち始める―ということなのではありますまいか?
音楽をやる為のバンドで、恋愛をする為の彼女だ。バンドを手に入れて、彼女を手に入れて、それで終わりじゃない。そこからようやく話が始まる。旅行に行こうと思って家を出て、切符を手に入れただけで満足するような馬鹿はいないだろう。
もっともっと貪欲に!
いっけいさまわちからもちにゃ。ぼくわからだもほそいし、おもたくてむりにゃ。なので、おんにゃのこ、ちゅうびんびーる、みゅーじっく、そして、きんかい100とん、で、じゅうぶんにゃ。