起訴

待つ側と、待たされる側では、どちらが辛いのか―これは以前にも申し上げたように、太宰さんが『走れメロス』の中で主題として扱ったテーマであるが、私個人的にはやはり、待たせる側よりも、待つ側の方が辛いんではないかと思う。

待たせる側には、選択肢がある。自分の意志をどの方向に持っていくのかを選択できて、さらに、その方向に対して、勝手に情熱を抱くこともできる。一方、待たされる側はというと、いわば「まな板の上の鯛」―メロスの親友がそうであったように、選択肢がなく、一切身動きが取れず、ただひたすらに信じて待つのみである。

太宰さん、あんたは本当は、「メロスは戻ってこなかった…」という物語を書くべきだったんじゃないだろうか。逆に言えば、あの時代、そんなことを書けるのはあんただけだったはずだし、その方が作品として絶対に面白かったはずだ。何故、「勝手に信じたお前が悪い」と書かなかったのか。それがあんただろう。

『駆け込み訴え』などで、キリスト教の考え方に対して、疑問を投げ掛けたり、毒づいたりしてる割には、『メロス』のオチは、「信じる者は救われる」だ。

おかしくないか?太宰さん。


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