ギンギラギンにあからさま

最近、子供の頃の自分は爆裂に元気だったなあ…ってなことをよく思う。今も至って元気なんだけれども、「爆裂」ではないよなあ…と思って、悲しくなる。

「あの頃に戻りたい」なんてこたあ一切思わない。本当に、自分でもびっくりするくらい思わないし、「今が一番楽しい」と声を大にして言えるから、それはそれで嬉しいんだけれども、あの、子供の頃の爆裂感はどこへいってしまったんだろう…とは思う。

子供の大笑い。腹から声を出して笑っている。それも、大人からしてみれば実にくだらないことで天地がひっくり返るほどの勢いで大笑いしている。あれが、あの爆裂感が羨ましいなあ…ってなことを最近よく思う。

大人がよく使う「気を使う」っていう言葉。あれ、何とかならんかねぇ…。邪魔で仕方ない。だって、「気を使う」ってのは要するに「気を使え」ってことでしょ?「気を使え」とは気を使って言えないから「気を使う」って言ってる。で、どいつもこいつも窮屈。好き好んで窮屈。ドMに非ずは人に非ず。ド変態同士寄ってたかって拵えた窮屈を耐え忍んで、耐え忍ぶことを悦んで生きてこその大人。やったぜ大人!偉いぞ大人!って…アホか。素直に腹から声出して笑えもしない奴が偉いわけがないだろう。不自然=人間か?と言いたい。

私は、「生きる」ということについて萎えていないのが子供で、萎えることを、萎えていることをさも偉そうに語るのが大人だと思っている。だから、「気を使う」という言葉は、人を萎えさせる「癌」のようなものだと思っている。

年齢性別を問わず、付いているモノが付いていようがなかろうが、萎えたら皆、ただのインポだ。その点、子供はいいね。常にあからさまにギンギンなんだから!


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