鍵と人格

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私は、ある人の前では良い人間だが、ある人の前では悪い人間である。でもこれは、自分でコントロールできることではなくて、接する人に応じて自我が勝手に反応して変化・変態してしまうことなので、仕方のないことといえば仕方のないことなのだが、心配なのは、もし、悪い私を引き出してしまう鍵を持っている人が、良い私を引き出す鍵を持ってくれている人と何らかの形で対面・対談してしまった場合に、悪い私を引き出してしまう人が、良い私を引き出してくれる人の中に、私に対する疑念みたいなものを植え付けてしまうのではないか?ということである。

良い私も悪い私も私であることに違いはない…のだろうか本当に。私の個人的な感覚で言えば、変な話だが、本当の私は良くも悪くもない。本当の私はいつも、少し離れた所から良い私や悪い私をぼんやりと眺めている。言うなれば、良い私も悪い私も私とは分離した「他人」なのである。だって、考えてもみよ。私がそんなに良いわけがないし、悪いわけがないだろう。今までだって、そんなに良かったためしも悪かったためしもないよ。だから、いつも良い私に良くしてくれているラッキーなあなたが、悪い私の話を小耳にはさんだとしても、それはあなたの知る私ではないし、私が生きる私でもないから、一切信用しないで頂きたい。また、悪い私しか知らないアンラッキーなあなたが、聞きたくもない良い私の話を小耳にはさんでしまった場合にも、それはあなたの知っている私ではないし、私にとっても私ではないから、そないに驚かなくても結構。今度は是非、鍵が無くても開く扉を探して開けて頂きたい。


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