もし私が、梅田の東通商店街を川瀬智子と腕を組んで歩いておる際に、智子との会話に夢中になり過ぎているがために注意散漫になっている私の肩が前から来た安岡力也と接触して、「肩外れたやんけ」などと力也に因縁を付けられたとしたら、通常であればアスファルトに頭をめり込ませる勢いで土下座をして許しを乞う所なのだが、いかんせん智子の目があるので、「ホタテに肩があるんかいボケ」などと震える声で応戦して、敗北覚悟で格闘せねばならんことになるのであるが、いかんせん智子の目があるので、私は分不相応にも負けるわけにはいかず、敗北を覚悟するわけにはいかず、かといって素手では絶対に勝てないので、猛烈な勢いで周囲を見渡して、何か武器になりそうなものを探すと思う。その時、都合よくバールのようなものがその辺に落ちておれば有難いが、さらに都合よくピストル的なものが落ちておればなお有難い。もし、バールのようなものもピストル的なものもない場合は仕方がない、刃物的なもので手を打つが、バターナイフじゃ意味がない。
―以上の文章は、「弱者が強者に勝つためには何かしら武器が要る」ということを言いたいがための無駄に長い挿話である。
動物や昆虫の世界を見てもわかるように、メスはオスよりも生命力があり、「生きる」ということにおいて明らかに強者である。これは人間界に於いても同じことが言えて、女は強者であり、男は弱者である。言うなれば、女は力也であり、男は私である。だから、男には常に武器が必要で、武器を探す習性がある。
ところで、私は未だ嘗て、腹の底から笑わせてくれるような笑いのセンスを持った女というのにお目にかかったことがない。同様に、心の底から尊敬できる女性アーティストにもお目にかかったことがない。これはたぶん、女には生来の生命力があり、「笑い」や「芸術」といった武器に頼らなくても生きていけるからだと思う。だから、逆に言えば、笑いや芸術に関しては、女は絶対に男には勝てないということになる。
武器を生み出すのも、生み出した武器の扱い方を知っているのも、弱者である。弱者自体はあくまで弱者だが、弱者が生み出した武器には、時に強者を一撃で魅了したり捩じ伏せたりしてしまう「殺傷能力」があると思う。
パンクという音楽が生まれた背景には、当時の英国の若者が社会的に弱者極まっていたという事実がある。
ブルースだって元々は、社会的に弱者極まっていた黒人たちの悲鳴が形になったものである。
松本人志は尼崎の地味なヘタレで、北野武は秀才揃いの兄弟に対するコンプレックスの塊で、太宰治は自分の血統を憎んでいた。
「弱者ほど強いものはない」学生の頃聞いた親父の言葉の意味が、何となくわかってきた。