イタミーセレブ、最期の言葉

昨日、近所のリサイクルショップの買取りコーナーで、和泉元彌のオカンによく似た派手なオバハンを見掛けた。
オバハンは、若い男の店員に向かって自分の持ってきたものがいかに素晴らしい品々なのかを、一品一品紙袋から出して、大きな声で説明していた。

「これね、この靴がイタリー製でね、それからね、この服はね、探しに探してやっと見つけたのよ!ほら!この袖のところの刺繍が素晴らしいでしょ?だってこれは、あの何とかいうブランドの…とにかく、イタリー製なのよ!」

店員はにこやかに「そうですかあ!わざわざありがとうございますっ!」と答えてから、「では、少々お待ちいただけますか?」と言って紙袋を受け取り、少し場所を移して査定に取り掛かった。

5分後、店員が紙袋を持ってオバハンの前に戻ってきた。そしてこう言った。

「160円です」

撃沈。薄れゆく意識の中で「でもイタリー…」と呟くオバハンの姿が涙で霞んだ。


目を閉じる<拾>

*イライラの理由の大半は幼稚なもの。いい歳をした大人に限って、実に幼稚な理由からイライラしている。どう見ても死活問題とは思えない、イライラする程でもないようなことでいちいちイライラして、それを「若さ」だと、頭より先に身体が取り違えている感がある。
本当に「若い」人間は、自分に先があることをよく知ってるから、死活問題外の、くだらないことでいちいちイライラしたりしない。

*考えるということを考えてみた。考え事というのは、本当は、自分の中から湧き出てくるものに対処することを言うんじゃなくて、耳を澄まして、神経を研ぎ澄まして、頭のてっぺんからアンテナ的なものを突き立てて、そのアンテナ的なものが拾った音に対して対処することを言うのではなかろうか。


目を閉じる<九>

5ページくらい読んで、でも読んだことが全っ然頭に入ってきてないのが自分でもよくわかって…しょうがないからまた1ページ目から読み返して。本を興味からではなく、義務感から読むと十中八九こんな感じになる。
一人で居酒屋へ行き、カウンターに座って考え事をすると、これと全く同じことが頭の中で起こる。


目を閉じる<八>

「ロールスロイスよりバンドメンバーが欲しい」と言ったのは、ポール・マッカートニー。「これだ!」という手応えのあるバンドを組むのは、エリザベス女王より金持ちで、知名度の塊のようなマッカートニーでも至難の技。極端に言えば、100億円を金の皿の上に積んで、怪しげな中国人に頼んで祈祷し倒してもらったところで、ジョン・レノンは二度と戻らないのである。

バンドが欲しいだけなら、妥協すればなんとかなる。確かに何とかなるだろうけれども、そういうことではない。本当に凄い音を鳴らすバンドというのは、そういうことではない。奇跡の産物でないと意味がない。戦えない。奇跡の産物でないと、不本意極まる敗北感を度々味わうことになる。で、早かれ遅かれ「解散」の二文字が待っている。

ここまで来たら、私が次にやるバンドは本当に凄い音を鳴らさねば意味がないから、奇跡の産物でないと、本当に意味がない。

本当に、全っ然意味がないのだ。


隣りの覚醒

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いつ見てもやる気ゼロ。ちょっとやそっとの雨じゃ目を覚まさない川、天神川がついに覚醒。ちょっとやそっとの雨じゃなかったから覚醒。覚醒してもこの程度。

私は、天神川小学校卒。


目を閉じる<七>

今まで通りのやり方じゃ駄目だとの判断から、今までとは違う、完全に真逆の手順を踏んでみることを検討している。今まで目標としていた所から入って、今まで入口としていた所から抜けることを検討している。しかし、「検討」ということをしてしまっている時点で今まで通りだ。


目を閉じる<六>

満足感
「安い肉はいっぱい食べる。高い肉はちょっとだけ食べる」

損得勘定
「安い物は長持ちしない。高い物は長持ちする」

金銭的な「高い」「安い」の問題を越えた価値観の持ち方として、この二つの言葉は、すごく簡潔で庶民的だけれども、大切な言葉だと思う。これは「質は量で補いませう。量は質で補いませう」という話ではない。安い肉はてんこ盛れ!安物は随時買い換えれば宜しい!という、そんな単純な話ではない。言葉の向こう側に「質で量は補えても、質を量で補うことはできない」という、文面にはない意味合いが漂っているのを感じるから不思議である。

私のような貧乏性の人間が、突然何を思ったか視野を広げてものを見たり、長い目でものを見たりして、「そういうことだったのかあ!」と感嘆せざるを得ない答えの中の答えらしきものを見つけてしまった場合に、まず求められるのは気合いだ。薄い木の皮のようなもので包まれた、オージービーフに慣れた目には明らかに腹を満たせそうにない量の松坂牛と、5万円のコンポに手を出す気合いだ。

例えが貧相だ。


目を閉じる<五>

私は昔から、松尾貴史という人の冷めた視点が好きで、彼の「塵がいくら積もろうが山にはならない」という言葉が大好きなのだが、私は、私がこのように毎日毎日コツコツコツコツああでもないこうでもないと考えて、その都度掴み取るその都度の答えのようなものが塵ではないことを切に祈っている。湯水の如くに時間を費やして得たものが積んでも積んでも山にはならない塵だとあまりに悲しい。

願わくは、性懲りなくああでもないこうでもないを続ける中で掴み取るものが、小さいとはいえ塵よりは幾分大きなもので、それが私の中にちゃんと積もって「山」と呼べるものになって、この山が高くなればなるほどに、私が物事を見上げることが減って、見下ろすことが増えることを、切に祈っている。