好きな角度

イギリスの音楽に感じるのは潤い。アメリカの音楽に感じるのは乾き。イギリスの音楽にあってアメリカの音楽にないのはクラシックの要素。だから、イギリスのバンドの音楽にはストリングスの音がよく似合うし、使い方も自然で上手い。俺はイギリスのバンドが好きで聴いてきたから、ストリングスの音に目がない。曲を作っている時も、ライブの時も、頭の中にストリングスの音が鳴り響いている。

俺が好きなのはロック。ロックが一番好き。これは絶対、死ぬまで変わらない。いかに歳を重ねたとて、演歌を聴くようになることは絶対にない。断言できる。が、そのうち必ず、ロックと並行して、クラシックを聴くようにはなると思う。

今、俺が働いている職場では常時クラシックが流れている。で、これがまた、結構しっかり聴いている。聴いているうちに、タイトルは知らないけど、好きな曲や嫌いな曲がでてきて、中には、一曲まるごと好きというわけではないけど、曲の一部がめちゃくちゃ好きというのがあったりもする。そして、クラシックの曲の中に光るものを見つけると「おお!ええ角度や!」と思う。

俺が、クラシックの曲で昔から大好きなのがこれ。『パッヘルベルのカノン』である。この曲はクラシック云々を抜きにしても好きで、好き過ぎてタイトルを調べたほどである。いつ聴いても鳥肌が立つ、えげつなく美しい角度を持つ名曲である。この進行、角度は、イギリスのバンド…特にビートルズやオアシスといったバンドが得意とするもので、俺もめちゃくちゃ影響を受けている。ためしに、騙されたと思って、この映像をバックに『SURFBLUE』を口ずさんでみなはれ。俺がどれだけこの角度に影響を受けてきたかがわかると思うし、「角度」の意味をなんとなく理解してもらえると思う。


俺は得手公

小学生の頃、学校にネットクライミングという遊具があった。丸太を三角形に組み合わせたものにネットが張ってあって、よじ登って、頂点の丸太を跨いで向こう側へ降りるというものだったのだが、極度の高所恐怖症だった俺は頂点の丸太を跨ぐことが出来ず、一度も向こう側へ降りることが出来なかった。そんな奴は俺だけだったし、人知れず猛烈に情け無く思い、気に病んでいたのであるが、あの頃の俺に声を大にして言ってやりたい。

そんなもん出来んでええねん!出来たからどないやっちゅうねん!何の役に立つねん!体育の時間の度に仮病使たったらええねん!

人には得手不得手がある。もちろん、不得手の中には克服すべきものもあるし、克服できるものもあるが、どうにもこうにも無理!逆立ちしても克服できない!というものだって絶対にある。それについては、得手で補えば良い。誰にだって、人一倍できることの一つや二つはあるだろう。そこで能力を遺憾なく発揮して、認めさせて、「この裏側に不得手があるんだ」と言い切ってしまえばそれまでのこと。何事にも表と裏があるんだから、得手があれば不得手もある。当然のこと。気にすんな。

俺の曲『グラサージュ』の中に「なりふり構わず/犠牲を厭わず/逃げて生き延びてくれ」という一節があるが、これは昔、職場に尊敬していた上司がいて、その人が言った「私は逃げることが悪いことだなんて全然思わない。逃げたらいい。逃げて、生き延びて、誰かの役に立てたら、それが一番」という言葉から来ている。自分で書いた曲であるにも関わらず、たまに口ずさんでは救われるというか…嬉しくなる。

今後も、詩を書く時には、自分自身を鼓舞したり慰撫したりできる言葉を大切にしていきたい。


カタルシス

ここのところずっと曲作りに没頭していた。厳密に言えば、曲は一瞬で出来たから、詩を書くことに没頭していた。初の楽曲提供。友人のシンガー、みこみかんさんの為に曲を書いていたのである。

楽曲提供というのは、される側とする側がお互いの能力を認め合っていることが前提だと思うのだが、みこさんであればそこに支障を感じないので、俺から願い出た。

まず、バラードでいくと決めて、骨格をエアピアノを弾きながら作って、ブリッジの部分だけギターで作ってまとめた。自分でも信じられないくらいあっという間に出来た。詩の付いていない段階のものをみこさんに聴いてもらったところ凄く気に入ってもらえたので、スムーズに詩を書くモードに入っていけた。

詩を書くにあたって何かワードをもらえないかとみこさんにお願いしたら、「どちらか一方を使ってもらえれば」と二つのワードをくれたのだが、俺は二つとも使うと決めた。

二つのワードを結び付ける為の何かを考えていたら、自然とこの絵が浮かび、この女の人を「sister moonlight」と名付けて、曲の主人公に据え、タイトルとした。

デヴィッド・ボウイが火星からやって来たロックスター「ジギー・スターダスト」を演じたり、ザ・フーのロジャー・ダルトリーがロックオペラ『トミー』をやる時に主人公のトミーを演じたりしたように、みこさんにsister moonlightを演じてもらってはどうだろう…というアイデアが浮かんで、このアイデアに沿って詩を書いて、昨日、完成した。

メロディーは自分らしいが、詩は自分らしくない。自分が歌う為に作ったとしたら絶対にありえない仕上がりになった。これはあくまでみこさんの曲なので、俺が歌う場合にはセルフカバーという形になるのだが、それはそれで今まで踏み込んだことのない領域。面白いことになると思う。

何はともあれ完成して良かった。みこさんから貰ったワードのうちの一つが「カタルシス」で、「魂の浄化」みたいな意味なのだが、この曲が完成した瞬間に感じたものこそまさにカタルシスだった。


『金平糖』解説

<曲について>

メロディーだけを抜き出して聴いてもらえば、骨格が完全に洋楽であって、俺が日本の音楽を聴いてこなかったこと、そして、洋楽は洋楽でもアメリカの音楽ではなくイギリスの音楽が好きで聴いてきたということが一発で分かると思う。

アレンジが冴えている。昔書いた曲にはトリッキーなアレンジを施してあるものが多いが、この曲に関してはトリッキーなことをしようなんて頭はなかった。なかったが、良い意味での違和感はあって、「本当にこれで良いのか?」と思ったが、自分にとってはこれが最も自然な流れらしく、どんなに考えても他の組み立て方が浮かばなかった。

<詩について>

例えば、誕生日を祝うにあたって用意したケーキにロウソクを立てて火を灯したら、次に何をする?そう、照明を落とすと思う。それと同じ要領で、「金平糖」というワードを引き立たせるために、「憂鬱」であったり「死」であったり、ダークなワードを並べてある…と言いたいところだけど、この曲の場合は逆で、照明を落とした真っ暗な部屋の中に火のついたロウソクを立てたケーキを持ってきた、というのが正解。いずれにせよ、これは一縷の望みの為に諦めたふりをしている人間の姿を歌った曲であって、ただひたすらに絶望的な曲ではないのだ。

<映像について>

個人的には、この映像はサイレントで観るのが好きだったりする。

1971年撮影。奇跡的に発掘された「映像は一切残っていない」とされてきた伝説的アーティストのフィルム…という設定で観ると、そうやって観れなくもないから面白い。


『悪魔と呼んで』解説

というわけで、今回公開した2曲について恒例の解説を。まずは『悪魔と呼んで』から。この曲については既に何度か書いたが、あれは一部歌詩を書き換える以前のものだったし、ライブで披露する以前のものだったから、そういったことを踏まえて、<曲><詩><映像>の3要素に分けて、もう一度書いてみようと思う。


<曲について>

この曲の面白いところは、サビらしいサビがないことである…と言いたいところなのだが、実はちゃんとサビはあって、それはハープを吹いている部分なのである。曲が初心者の吹くハープに主役の座を譲ってしまっていることの潔さがこの曲の面白いところなのである。先日、うちの奥さんが鼻歌でこの曲を歌っていて、よく聴くとハープのラインだったので笑ってしまった。

<詩について>

以前にも書いたように、これは芸術家について書いた詩である。が、ライブで歌ってみて感じたのは、俺の中にある「俺はヒール(悪役)だ」という気持ちの炸裂だった。一般のお客さんだけを前にして歌う場合には芸術家として歌うんだろうけど、お客さんの中に同業者が多く紛れ込んでいる場合はヒールとしての気持ちが炸裂する。一緒にするな。拒絶してくれ。嫌ってくれ。見境なく、そんな気持ちでいっぱいになる。煮え繰り返るような疑問や憤りをいちいち言葉に置き換えて歌ったら、35分の持ち時間なんて到底足りない。何か別の方法で一気にドバッ!と吐き出せないものか…考えて、ハープに手を伸ばした。つまり、曲だけではなく詩も、ハープに主役の座を譲ってしまっているのである。

<映像について>

基本的にライブ映像というのは、カメラを固定すべきではないと思っている。撮影する人の気持ちが手からカメラに伝わって画像が暴れたら、それが最高の形。この映像は、そこに原因不明のレトロ感が絡んで、素晴らしい出来だと思う。

この映像を観た人の中に、終盤(3:09)の俺の右手の動きを真似てくれる人が現れた。なんか、凄く嬉しい。ロックスターのちょっとした仕草。真似したことは腐るほどあっても、真似されたことは一度もなかったからな。


fragile

先日のライブからもう一曲、『金平糖』の映像を公開。当ブログのベテラン読者ならよく知っている「暗黒の大阪時代」に書いた曲である。

死ぬことしか考えてなかった…というか、正直、そんなことを考える気力すらなく、毎日、何の目的もなく天神橋筋商店街を彷徨い歩いていた。

ソングライターじゃなかったら死んでたかもしれない。頭の片隅に「俺はソングライターだ」という思い(金平糖)がかろうじて残っていたから、死ぬほど辛くても、それをどこかで「美味しい」と思える自分がいて、なんとか踏ん張れた。

映像はこれで11本目。俺の中に「配信する映像作品の数はチャンネル登録者数を超えてはならない」という規定がある。今、登録者数が「11」だから上限に達したことになる。

『悪魔と呼んで』はFacebook上でも紹介したけど、これは紹介しない。あの平和ボケした人たちにこの曲が理解できるとは思えないし、理解できない人たちの前に置いた金平糖は、傷付けられたり壊されたりするような気がする。

この曲は、あの時、絶望的な日々の中で拾った唯一の宝物であり、壊れ物でもあるから、大切に扱いたい。


☆新映像公開☆

先日のライブから『悪魔と呼んで』の映像を公開した。

撮ってくれた人が撮ったことを忘れており、下手すりゃ誰の目にも触れることがなかった…という意味に於いて貴重な映像である。

映像には一切手を加えていない。色々とやってみたが、そのまんまが一番良いと判断した。

初披露のブルースハープ。ギターにしたって同じことが言えるけど、俺より下手な奴を見つけることの方が難しい。でも、不思議なことに俺は自分の出す音が一番好きだ。

観に来てくれた人も、観に来れなかった人も、酒飲みながら爆音で楽しんでくれ!


一夜明けて

一言一言、言葉を噛み締めて、全力でギターを掻き鳴らして、限界まで声を振り絞って歌った。「ミスる/ミスらない」なんてどうでも良かった。昨日の俺は、自覚していたわけじゃないけど、これまでと目指しているものが違ったように思う。結果として、お客さんや他演者さんから返ってきたものが自己評価を大きく上回った。
ライブ後、物販席にはほとんど何も残らなかった。アルバム『DABADA TV SHOW』は完売。所狭しと並べておいた缶バッジが4個と『eclipse』が1枚残っただけ。CDにサインを求めてきてくれた人もいた。それも一人や二人じゃなくて、初対面の人もいて…本当に嬉しかった。

何か掴んだような気がする。

ほとんど何も覚えてないけど…。


後は野となれ山となれ

あと3日。

最終リハが終わった。あとはもう感情の問題。ステージに立つまでこれといって考えることはない。ビートルズ聴きながら焼酎飲んで、我が「嵐の前の静けさ」を過ごす。

有終の美。これまでやってきた表現と、地元伊丹でのライブに一区切りつけようと思っている。

全力を尽くす。