終わりの手前から
組織にとっては、大人しく言うことを聞く人間こそが癌でございます。組織は、そういう人間のことを「利用している」と思っていますが、アホか。実際は、利用されているだけです。
そいつは、嘘の塊です。
昔から「良薬口に苦し」と言って、組織にとっては、「煙たい」と感じる人間の言葉の中にこそ、速効性のある良薬がございます。
もはや、綺麗事だけではどうにもなりません。この「世界」は、はっきり言って、風前の灯火です。
一刻も早く目を覚ましてください。さもないと、the endです。
威厳皆無
意見は意見。批判は批判。
意見=批判ではないぞよ。
自由に意見することを認めないから、意見の代わりに、「意見」の対義語のようにして、「批判」が沸き起こってくる。これが逆に、自由に意見することを認める環境だと、批判も意見の一つとしておおらかに飲み込んで、大切に扱うから、「批判」が「意見」の真逆を行くものとして独立したものになることはない―と私は考えている。
私はバンドをやるとなると、威厳的なものは皆無に等しかったかもしれないが、常にリーダーといえばリーダーであった。だから、この辺のことを考えることは義務といえば義務だったし、日常茶飯事であった。
私がメンバーに対して唯一、口を酸っぱくして言っていた言葉がある。それは、「バンドへの貢献度が高い人から順に意見できますのよっ。ウフッ」というものであった。
当たり前といえば当たり前な取り決めだが、組織の大小を問わず、「構成員」が基本的に守るべき大切な取り決めだと思っているし、この取り決めさえ守るのであれば、思ったことを思った時に、じゃんじゃん言えば、意見すれば良いと思っている。ただ、「ウフッ」とか言う奴には、何をどう取り決めたところで、誰も付いてこないことは確かである。
後者と他者
私が持っているもの―持って生まれたものって、一体何なんだろうか?ということを、たまに考える。誰にだって一つはあるみたいだから、私みたいなもんにも、ひとつくらいはあるだろう。
「持って生まれたもの」というのは、なるべく早い段階で自覚して、意識的に伸ばしていくべきものなんだろうか?それとも、自覚できていない間が華で、自覚してしまった瞬間に終わってしまうものなのだろうか?
もし、後者が真相なのであれば、私としては万々歳なのだが、他者と接していて、自分の「売り」と呼べるものを自覚できていないというのは、それはそれで、それなりに結構不安である。特に、私がその「他者」のことを大好きである場合には。
幸福の忠誠心
私という人間は、忠誠心ありきである。
恋愛に対して、音楽に対して、仕事に対して、自分の中に燃えるような忠誠心があるのを感じた時に、私は、私の人生に、最大級の幸せを感じるのである。
「絶対に裏切らない!」と、誰かに対して、何かに対して、強く思えること以上の幸せなんて、私に関して言えば、ありゃあしないと思っている。
夜霧の私
生きていると、あらゆるシチュエーションに於いて、ことあるごとに、暗黙の了解的な空気を感じて、「自分は今、こう言うべきなんだろうな。」とか、「自分は今、こうすべきなんだろうな。」などという考えが頭をよぎる。
よぎりはするが、よぎるだけで、そんなくだらない他人の期待にいちいち応えてられるかアホンダラ!―と思うのが私という人間であって、これはなにも今に始まった話ではなくて、子供の時分からの、言うなれば、生まれ持った性分なのである。
私は、考え方に「切れ味のある考え方」というか、「鋭利な考え方」というものがあるとすれば、それは、誰もが真っ先に思い付く「王道」の中にはなくて、そこから少し、たまに大きく、逸れた場所に転がっていると思っている。
使い古されて手垢にまみれて凝り固まった考え方に行く手を遮られた場合に何も言わないというのは、白旗を上げているのと同じことだから、何かしないといけないし、何か言わないといけない。とはいえ、いきなりドデカいハンマーやなんかを持ちだしてきて、片っ端から粉々に粉砕するなんていうのは夢物語。無理な話。だから、鋭利な考え方でもって、スッと切れ目を入れる。それならできないことはないし、そこから菌が入ったりやなんかして、何かが変わっていく。
「一石を投じる」という言葉がございます。石ころをひとつ投げつけているだけの話ではございますが、そこから確実に何かが変わるかのような気がするから不思議でございます。



