夜霧の私

生きていると、あらゆるシチュエーションに於いて、ことあるごとに、暗黙の了解的な空気を感じて、「自分は今、こう言うべきなんだろうな。」とか、「自分は今、こうすべきなんだろうな。」などという考えが頭をよぎる。
よぎりはするが、よぎるだけで、そんなくだらない他人の期待にいちいち応えてられるかアホンダラ!―と思うのが私という人間であって、これはなにも今に始まった話ではなくて、子供の時分からの、言うなれば、生まれ持った性分なのである。

私は、考え方に「切れ味のある考え方」というか、「鋭利な考え方」というものがあるとすれば、それは、誰もが真っ先に思い付く「王道」の中にはなくて、そこから少し、たまに大きく、逸れた場所に転がっていると思っている。

使い古されて手垢にまみれて凝り固まった考え方に行く手を遮られた場合に何も言わないというのは、白旗を上げているのと同じことだから、何かしないといけないし、何か言わないといけない。とはいえ、いきなりドデカいハンマーやなんかを持ちだしてきて、片っ端から粉々に粉砕するなんていうのは夢物語。無理な話。だから、鋭利な考え方でもって、スッと切れ目を入れる。それならできないことはないし、そこから菌が入ったりやなんかして、何かが変わっていく。

「一石を投じる」という言葉がございます。石ころをひとつ投げつけているだけの話ではございますが、そこから確実に何かが変わるかのような気がするから不思議でございます。


2件のコメント

  1. 小さな石ころでも躓きますよね!

    しかし…。
    躓いた瞬間に何を思うか。
    ただの石ころ。されど石ころ。

    1. 私なんて、年がら年中躓きっぱなしですよ。だから、うつむいて歩く癖が付いてしまいました。でも、そのお陰で、たまにお金とか、お金では買えそうにないものを拾うこともしばしばです。

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