誰か私に、酔っ払ってる私に、ギターを押し付けて、コードを3つだけ提示して、「この3つのコードだけで曲を書け!」と言ってくれないだろうか。
間違いなく、びっくりしてもらえると思う。
「南無三!」と叫んで、焼酎を野菜ジュースとアイスコーヒーで割ってみた。
おぞましく不味い。殺す気か。
私は、この不吉な飲み物を「ブラックサバス」と呼んで、二度と口にしないことを誓った。
今、生きていて一番落ち着くのは、楽しいのは、やはり、部屋で一人、音楽を聴きながら酒を飲んでいる時である。
当然ながら、一言も喋らない。当たり前だ。でも、頭はひっきりなしに、とっかえひっかえ、何かを考えている。「あの人の目に、俺という人間はどう映ってるんだろうか?」ということを考えた2秒後には、「やっぱりマッカートニーのベースラインは世界最強だ。」とか思っている。
色んなシチュエーションごとに、「好きな自分」「嫌いな自分」というのがあって、私は、こうやって、部屋で一人、音楽を聴きながら酒を飲んでいる時の穏やかな自分が結構好きで、こういった自分の姿こそをもっと人に見てもらいたいのだが、それは到底無理な話。
日々、人と接している時の私というのは、大して好きではない自分―演じてるか壊れてるかしてる自分―なのだな…と思うと泣けてくるので、酒がすすんでレノンが叫ぶ。
先日、あるお年寄りが「話題は何でも結構ですから、少し話し相手になっていただけませんか?」と言うので、ここぞとばかり恋愛相談を持ち掛けたところ、このような答えが返ってきた。
「和田さんは自分の考え方をきちんと持っておられるから、そのうちきっといい人が見つかりますよ。」
嬉しかった。が、私が引っかかったのは、別に珍しくもなんともないが、「自分の考え方を持っている」という言葉であった。
自分の考え方を持っている人間がいるということはつまり、自分の考え方を持っていない人間がいるということになる。そして、そんな人間はザラにいるということになってはいるが、そんなけったいな、気持ちの悪い人間が、世の中に、本当にいるのだろうか?
自分の考え方を持っていない人間というのは、考え方そのものを持っていない人のことを言うのだろうか。それとも、誰か他の人の考え方を持って生きている人のことを言うのだろうか。
前者は植物人間以外の何物でもないし、後者は他人の脳でもって自分の身体を動かすという器用極まる芸当、離れ業を平然とやってのけてしまえている超人だとしか思えない。
私は、植物人間にはなりたくない。かといって、超人になろうと思えば、35にもなって、「肉」とか「中」とか、何でもいいから適当な漢字を額に一字彫らねばならんことになることを思うと、自分の考え方に忠実に生きるのが一番楽なことであるかのように思われるのだがしかし、これがまたやってみると結構難しくて、往生している。
―ところで、私が超人を目指すとして、額に一字彫るとしたら…「生」になる。「セイ」ではなく「ナマ」と読んでいただきたい。
脱け出したいと思っている。何かから脱け出したいと思っている。何から脱け出したいと思っているのかは、自分でもさっぱりわからんし、「敵」の正体がわからんだけに、どの方向に向かって、何をどうすれば良いのかもさっぱりわからんのだが、とにかく、一刻も早く、何かから脱け出したいと思っていることだけは確かで、「手も足も出せんのなら、せめて声だけでも!」とばかり、ただただ、むやみやたらに、ジタバタしながら、叫んでばかりいる。
壊されるのは嫌だが、壊れるのは嫌いじゃない。
壊れるということでもって、自分の中で何かをリセットしている。
壊れるということでもって、定期的に生まれ変わっている。
壊れるということでもって、新しい一日が始まる。
構築は、放っておいてもなされるが、破壊は、意志とパワーがないとなされない―と、思う。
フォークもカーブもスライダーもチェンジアップも知らない、ストレートしか知らないピッチャーが、へべれけに酔っ払ってマウンドへ上がって投げた真っ直ぐが、ものの見事に打ち返されてバックスクリーンへ―という画が思い浮んだ。
昨夜、私は、そんなピッチャーであった。